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大谷とベーブ・ルースをつなぐ久慈次郎という存在

 それから3年後。ベーブ・ルースも喜んだであろう2021シーズンの大活躍。大谷とルースをつないでいるのが戦前の1934(昭和9)年11月にルースが主将となって来日した日米親善野球大会の日本側の主将兼捕手・久慈次郎(当時・函館太洋倶楽部、通称・函館オーシャン)だ。

函館オーシャン時代の久慈次郎(野球殿堂博物館)

「くじ」と聞いてピンと来るのは、よほどの野球ファンだろう。都市対抗野球大会の敢闘賞の「久慈賞」は、この人にちなんでいる。1939年8月19日、札幌・円山球場で頭に送球を受けて2日後の21日に死去し、野球殿堂入りした「北の球聖」だ。

 日本の野球の歴史は、大まかにいうと朝日、毎日、読売の新聞拡張の歴史と重なる。朝日新聞が今の全国高校野球大会(甲子園)を主導したのに対し、毎日新聞は社会人野球、そして読売新聞が職業野球を主導した。現在のプロ野球の形を創設し、国民的世論と人気を沸き上がらせたのが1934年の日米野球大会だった。

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日米野球が行われた函館の湯の川球場跡にある看板

 この年の7月に読売新聞紙上で「ベーブ・ルース初来日」をぶち上げたオーナーの正力松太郎は、日本行きを渋るルースの元に使者を送り「野球王ベーブ・ルース」の似顔絵が大きく描かれたポスターを散髪中のルースに見せた。ルースは「それなら行くよ」と言ったという逸話が今でも残っている。

正力松太郎は「読売つぶし」とも言える法令に反発

 日米野球は1931年(昭和6年)に初めて読売新聞社が主催し、早大OBの久慈を主将に大学の現役選手たちを集めて開催された。ところが翌1932年に当時の文部省が野球統制令を出して学生がプロ選手と試合をすることを禁じた。これに関わったのは、学生野球や社会人野球の既得権益を守ろうとした朝日や毎日の関係者だったと言われている。

 読売つぶしとも言える法令に反発した正力は、アメリカのようなプロ野球を日本に発足させようと、再び大リーグ選抜チームを呼び「地上最強チーム」と宣伝して、国内各地で16試合を組んだ。その目玉がキャリア晩年のベーブ・ルースだったというわけだ。

 1934年に行われた2度目の日米野球のアメリカ側メンバーには三冠王のルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)、チャーリー・ゲーリンジャー(デトロイト・タイガース)らのスター選手が勢ぞろいしていた。