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《二刀流・大谷翔平とベーブ・ルースを繋ぐ奇縁》岩手出身の「球聖」久慈次郎が築いた日米野球“88年前のキズナ”

《二刀流・大谷翔平とベーブ・ルースを繋ぐ奇縁》岩手出身の「球聖」久慈次郎が築いた日米野球“88年前のキズナ”

2022/01/03

沢村栄治の月給が120円の時代に久慈は月給500円を提示された

 その後、久慈は、盛岡中学を卒業し、早大理工学部に入学する。3年先輩で名捕手と呼ばれた市岡忠男の指導を受けた。アメリカ遠征なども経験し、本場の技術を盗んだ。打者走者が一塁に向かう際、捕手がバックアップに走るのを最初に始めたのは久慈だった。

久慈は日本代表キャプテンだった

 1934年11月4日から12月1日まで16戦が行われた日米野球では、全日本チームが全敗。だが静岡草薙球場での試合では沢村栄治投手の剛球に大リーガーも手が出ず0-0のスコアが続いた。しかし、7回にゲーリッグのホームランが出て、結局日本は0-1と惜敗。久慈の好リードが新聞評に載った。

 このチームが母体となってプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(読売巨人軍の前身)が発足する。久慈はそのまま主将として破格の条件を提示されたが、辞退した。

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 当時の沢村栄治の月給は120円、のちに巨人軍監督となり、日本ハム球団代表を務めたこともある三原脩は170円だったが、この時久慈は月給500円を提示されたのだった。

久慈が日本初のプロ野球チームの初代主将という栄誉を捨てた理由

 日米野球終了後、静岡で合同練習を始めようとしていた監督の三宅大輔のもとに久慈から手紙が届いた。

「拝啓 私儀、今回の大日本野球倶楽部設立に際し、非才の身をもち主将の重職に任命され感激おくあたわず。粉骨砕身、もって発足する新球団のために働く所存により候ところ、家業に手離しがたき事生じ、球団より身を引くの止むなきに立ち至り候。(中略)沢村投手を秀逸なる投手に仕上げるべき責任を担い、私もそれを何よりの愉しみと考え、渡米の日来たるを指折り数え待ち憧れいたるところ、函館へ帰着以来家業の業態を点検するに及び、アメリカ行きを断念せざるを得ぬ事情を発見仕り候」

 辞退の理由は、この年(1934年)の3月21日に起きた函館大火だ。市街地のほとんどの部分が焼失し、死者は2000人を超えた。

久慈が送球を受けて倒れた時のユニフォーム。右肩には血痕がにじむ(岩手めんこいテレビ)

 久慈は家業の運動具店の再建もあったことから、日本初のプロ野球チームの初代主将という栄誉と高給を捨てて函館に残る決断を下した。その5年後、札幌での試合中の事故により帰らぬ人となった。