田中将大が夏の甲子園で早実高の斎藤佑樹と投げ合った、歴史的決勝の日に…
来日したベーブ・ルースと最も親しくしたのが日本側の主将である久慈次郎だ。私がその功績を知るきっかけになったのはマー君こと駒大苫小牧高の田中将大が夏の甲子園で早実高の斎藤佑樹と投げ合った、歴史的決勝再試合が行われた2006年8月21日だった。
その日、新聞社の現地デスクとして甲子園球場にいた私は、試合終了後、北海道にまつわる過去の野球選手をピックアップしていた。その中に函館オーシャンで活躍し、日米野球の主将として野球殿堂入り1号となった久慈次郎の名前をみつけた。
久慈の命日が偶然にも8月21日だったので、何気なく「ご家族か関係者の談話を取れないかな」と思って連絡先を探した。
当時は、インターネット検索ができなかったため、図書館で全国の電話帳を片っ端からめくると、兵庫県宝塚市に同姓同名の「久慈次郎」をみつけ電話をかけた。
「あの野球の久慈さんのお宅でしょうか」
「はい、久慈次郎の息子の久慈次郎です」
「亡くなられたお父様と同じ名前を付けられたんですね」
「ええ、そうです」
背筋に電気が走るほど驚いた。円山球場で倒れた久慈次郎は、札幌市立病院に運ばれ、意識が戻らないまま2日後に亡くなった。この時、妻・香代さんのお腹には3カ月後に出産予定の子供がいた。生まれてきた男子に母親は同じ名前を付けたのだ。
早速、宝塚市の久慈家を訪れると貴重な一枚の紙が大切に保管されていることを知った。1934年にアメリカチームが来日した際に主将のベーブ・ルースと交わしたメンバー表だ。ルースを始め、選手全員のサインがあった。
久慈次郎君は捕球の正確なるは天下一品。打撃は割合に不正確にして軟打なり
久慈次郎は1898年(明治31年)10月1日、青森市で久慈清、ツヤの次男として生まれている。逓信省の役人だった父親の事情で幼少期から旧制中学卒業までを盛岡で過ごした。絵を描くことが好きで、画家を目指していたこともあった。
旧制盛岡中学(現・盛岡一高)時代に野球仲間らと制作していた文集や書簡などを盛岡市内の知人が保管し、その中に当時の野球熱が伝わる貴重な記述や絵があることが分かった。久慈次郎の生誕120年の特集番組を手掛けていた地元の岩手めんこいテレビ(フジテレビ系列)の記者が拙著の中に久慈の記述を見つけたことから連絡が来た。2018年9月のことだ。
それは、当時の盛岡中学の野球仲間が、野球のことや学業のことについて書き綴った文集だった。ペンネーム「傍若無人」氏は、「大正五年度野球部想像」というタイトルで次のように久慈を評している。
「捕手久慈次郎君は捕球の正確なるは天下一品。然れども二塁投球のモーションの大なるは惜しむべし。打撃は割合に不正確にして軟打なり。また走塁甚だ拙(つたな)し」
文集の中には、野球のスコアの付け方を記したものもある。現在、使われているスコアシートの原型で、大正時代にアメリカから記録方式が伝わっていたことが分かる。