学会員の「2世」として生まれた男
「いまでは学会も公明党も執行部のため、組織維持のための組織になりさがっている」と批判する元学会員の天野は、年金暮らしの両親とともに暮らす。
天野は両親が学会員の「2世」で、生まれたときから、信仰は身近にあった。朝晩の勤行を欠かさない暮らしが変わったのは、信州大学に進み一人暮らしを始めた時。さらに大学を中退後に上京すると、「信心なんて古臭い」という感覚が勝り、祈ることもしなくなった。
将来を思い悩み始めた20歳過ぎ、偶然、知遇を得た学会員の勧めで信仰心を取り戻した時期もあったが、結婚を機に再び、学会から遠ざかった。妻が営むパチンコチェーンで経営に携わるようになり、仕事に追われていたからだ。
そんな折、バブル経済が弾けた。
「会社のリストラを行い、その残務処理をしているうちに私が精神的に参ってしまった」
妻ともうまくいかなくなって離婚した。仕事を失った上に、中学生と小学生の男の子3人を引き受けた。子育てと両立できる仕事を消去法で探して、タクシー運転手に。どん底を味わっている天野の所に足を運んでくれたのは、学会の人々だった。
“集団的自衛権行使容認”への違和感
「人情が厚くてね。『子育て大丈夫?』なんて訪ねてきてくれる」
信仰指導も受け、仕事、子育て、学会活動すなわち選挙にも打ち込んだ。再び祈るようになった。元妻に対して抱いていた恨みが薄れ、感謝に変わっていくのを感じた。長男の大学進学をきっかけにして息子たちが一人ずつ、妻の家に移っていった。妻とも復縁した。
高齢の両親がいる実家に戻ろうと決めると、学会では地区の副支部長という役職を任された。政府が集団的自衛権行使容認の憲法解釈の見直しを決定したのは、帰郷の年、14年7月のことだった。
「平和の党」を標榜してきた公明党だが、自衛隊のイラク派遣の容認などをめぐり、「自民党にすり寄っているのではないか」との違和感を学会員たちに残していた。
天野が地域幹部に問うと「少人数の公明党が自民党の暴走に歯止めをかけたんだ」と言われた。勉強会では、遠山清彦など公明党の論客が「公明党が主張することで、新3要件という歯止めをかけた」と説くビデオも見せられた。一旦は納得し、翌15年の統一地方選は新人市議を応援し、議会に押し上げた。
だが、その年の6月、安保法制関連法案について与野党の推薦で国会に招かれた3人の憲法学者が「法案は違憲」と発言した。そのニュースに接して、天野の疑念は抑えきれなくなっていた。