昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「呂律が回っていないし、目は薄く開いているだけでした。せん妄のような症状もあり、聞けば尿が出ない、お腹が痛いと。私は以前介護施設で働いていたので、すぐに脱水症状と、そこからくる便秘や膀胱炎だとピンときました」

 毎回の面会で交わしていたアクリル板越しのハイタッチは、ウィシュマさんが立ち上がることができず座ったままだった。しかし面会開始から20分ほどたつと、ウィシュマさんは耐えきれず嘔吐してしまったという。

「すでに何も食べられてない状態が続いていたので、吐いたのは血が混じった胃液が少量でした。抱えているバケツの中に吐くことすらままならず、床に飛び散ってしまった。ウィシュマさんの車椅子を押してきた職員が掃除を始めたので、思わず『あなたも辛いよね?』と聞きました。こくりとうなずいていましたが、完全に体調を崩している彼女がまともな医療を受けられずにいるのを本当はどう思っていたのでしょう……」

「このときが命を救うギリギリのポイントだった」

 その場で面会は打ち切りになり、眞野さんが帰宅すると自宅にはウィシュマさんからの手紙が届いていた。そこには「食べることも飲むこともできません」「食べなきゃいけないのに食べられない。どうしていいかわからない」と綴られていた。

「ひらがなで綴られていた文章もローマ字や英語になり、字も乱れていて、やっとの思いで書いたんだろうというのが見て取れました。2日後の2月5日に再び入管へ行った際にはウィシュマさんが検査を受けていて面会ができず、そのことを謝る2月8日付の手紙が後に届きました。それが、彼女から届いた最後の手紙になりました」

2月8日の手紙では、慣れない日本語を書く気力を保てなくなっていたのだろうか Ⓒ文藝春秋
2月8日に書かれた、ウィシュマさんから眞野さんに届いた最後の手紙 Ⓒ文藝春秋

 入管のケア体制に不信感を覚えた眞野さんは、ウィシュマさんの体調をチェックするために面会の頻度をさらに増やした。2月10日の面会では、ウィシュマさんの“手”に異変が起きていることに気がついたという。

「指が曲がったまま固まってしまっていたんです。身体の他の場所も思うように動かせなくなっていたようで、『トイレに行こうとしてベッドから落ちたけど、誰も助けてくれなかった』と悲しそうに話していました。2月15日からの仮放免を申請していたのですが不許可になったのも同時期でした。いま思えば、このときが彼女の命を救うギリギリのポイントだったのだと思います」

 眞野さんは2月17日と26日にも面会を行なったが、この頃になるとウィシュマさんは常に吐き気に襲われているような状態で、ほとんど会話にならなかったという。