しかし、コロナ禍でテレビ番組の収録が軒並み中止になった頃、鶴瓶の個人事務所の社長から、いまは世間の役に立てていないエンターテインメントだが、鶴瓶という芸人で何かできないかと提案され、撮りためた映像で映画をつくることが決まった。入場料はすべて映画館の収益にするという異例の形をとりながら、全国各地でミニシアターを中心に上映が続いている。
映画『バケモン』では、鶴瓶の足跡とともに「らくだ」の生まれた背景も、噺に出てくる地名を手がかりにあきらかにされていた。じつは鶴瓶も初めて「らくだ」を演じるにあたって、噺に登場する、フグ中毒で死んだ乱暴者のらくだ(もちろんあだ名である)を2人の男が棺桶代わりに菜漬けの樽に入れて火葬場まで持っていく道筋を実際にたどってみたという(※2)。
「こいつには稽古つけたことがおまへん」
それほど思い入れのある「らくだ」だが、鶴瓶はこれを松鶴から教わったわけではない。そもそも師匠は彼を可愛がりながらも、ほとんど稽古をつけてくれなかった。鶴瓶はその理由を、自分が早くからラジオやテレビの仕事を始めたので、兄弟子たちから嫉妬されないよう、バランスを取ったのだと解釈している。
一度、若手のコンクールに出たときには、大学の落語研究会時代に自己流でやっていた噺で爆笑をとり、審査委員長だった松鶴が「こいつには稽古つけたことがおまへん」と言うとさらに大爆笑になったという。結果は落選だったが、師匠は帰りがけ、「おまえ、いっちゃんおもろかったわ」と言ってくれた(※3)。
落語に本格的に取り組むようになったのは、50歳をすぎてからだった。きっかけは、2002年に春風亭小朝から東京・国立劇場での落語会へゲストに呼ばれ、古典落語の人情噺「子別れ」をやってほしいと頼まれたことだ。一旦は断ったが、どうしてもと言われて引き受ける。そのときにはすでに松鶴は亡く、桂文紅に一から稽古をつけてもらった。こうして本番までの4カ月間、必死で稽古をした末に演じた「子ほめ」は評判をとる。その後、大阪の落語会でもやったところ、楽屋にいた桂ざこばが感動して泣きながら、「おまえ、本気やなあ」と言ってくれた(※4)。