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小島秀夫が観た『マッドマックス』&『リュミエール!』 

モノクロが魅せる「映画の本質」とは何か?

2017/12/03

genre : エンタメ, 映画

note

『マッドマックス』における「water」の意味

 ジョージ・ミラーは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 で、122年にわたる映画の歴史そのものを凝縮してみせた。この作品そのものが、セリフを極力抑え、アクションの連続で物語を語ってみせることを意図していた。映画の原点を踏まえ、それを最先端のテクノロジーで実現している。だからモノクロ版が、作品の魅力を損なうどころか、よりいっそう輝いて見えるのは当然のこととも言える。

©2015 VILLAGE ROADSHOW FILMS (BVI) LIMITED

 マックスがフュリオサと会って、初めて口にする言葉は「water」だ。これはこの作品が水をめぐっての物語であるせいでもあるが、私はヘレン・ケラーの「water」を連想した。視力、聴力、言葉を失った彼女が再び獲得した最初の言葉である。それは断絶していた世界とヘレンを再会させるキーワードだ。「マッドマックス」では世界を再生する資源であり、マックスとフュリオサを結びつける言葉だ。

 そしてまたマックスが発する「water」は、私にとって、映画の歴史をさかのぼって、映画が本来持っていた魅力を再発見させる言葉でもあった。モノクロで、色と音がない映画、リュミエール兄弟が作り出した最初の映画と、21世紀の最新の映画とを結びつけるのが「water」という言葉だった。

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 122年の技術(テクニック)とテクノロジーの蓄積によって映画は一見、豊かになったように思えるが、実は根本は何も変わっていないのではないか。

 本作は、そのことを突きつけてくる。同時に映画の到達点を示している。その次に行くにはどうすればいいのだろうか。

リュミエール兄弟が閉じ込めたもの

 映画はどこに行くのか、エンタテインメントの未来と可能性はどこにあるのか。それを探るためには、映画という枠組み(フレーム)を取り払ってみる必要があるだろう。

『日本』(1897)  © 2017 - Sorties d’usine productions - Institut Lumière, Lyon

 リュミエール兄弟は、映画を個人用のエジソンの箱(キネトスコープ)から解放した。しかし、彼ら兄弟は、フレームで囲われたスクリーンに映画を閉じ込めた。それによって映画館が生まれ、ポップコーンとコーラを片手に家族や恋人と過ごす場所になった。多くの人を集めるためには、みんなが理解できて楽しめる作品が求められるようになる。1日で上映できる回数×入場料という興行の観点から、効率よく収入を上げるために90分から2時間という尺も決まってくる。興行というシステムとマーケットが、映画というコンテンツを規定しているのだ。そして、それらの源は全て「スクリーン」にある。