『NHK紅白歌合戦』の裏番組でマイケル・ジャクソンをぶつける――。そんな大胆な発想を実現させようとした男がいる。フジテレビ『夜のヒットスタジオ』のプロデューサーを務めた疋田拓氏である。1985年からの2年間、大晦日『世界紅白歌合戦』のキャスティングに奔走していた彼は、会うことさえ難しいと伝えられたマイケルとの対面に成功していた。(全2回の2回目/1回目を読む)

疋田氏 ©文藝春秋 撮影・宮崎慎之輔

前代未聞の『世界紅白歌合戦』

「『NHK紅白』の裏で『世界紅白』をやるって、“あいつバカじゃないか”と思われたんじゃないですかね? はっはっは。無謀と捉えられたでしょう。まあでも、やってみないとわからないですからね」(疋田氏、以下同)

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 1985年4月17日にフランク・シナトラとティナ・ターナーの“夢の共演”を実現させたことで、『夜ヒット』は世界中から注目される番組になり、ビリー・オーシャンやポール・ヤングなど外国人アーティストが毎週、衛星生中継やスタジオ出演した。その余勢を駆って、疋田プロデューサーは大晦日の『NHK紅白歌合戦』の裏番組として『世界紅白歌合戦』という企画を提出した。

『夜ヒット』の格を上げた衛星中継枠は、テレビにあまり出たがらない歌手を説得する材料にもなっていた。ホイットニー・ヒューストンがニューヨークから歌声を届けた翌週の11月20日、矢沢永吉がロサンゼルスから出演。「衛星中継枠」で初めての日本人歌手の登場となった。

矢沢永吉 ©文藝春秋

「外タレの枠で歌えば、(自分の)価値が上がりますからね。逆に言えば、矢沢さんはそこを狙っていたのかもしれません。今まで錚々たるメンバーが出ているわけだから。交渉もすんなり行きましたね」

 週を追うごとに『夜ヒット』のブランドは高まっていった。しかし、それ以上に『NHK紅白歌合戦』は日本の歌手にとって価値のある番組と考えられていた。年間視聴率ランキングで毎年1位に輝いており、歌手は出場できるか否かで翌年の営業のギャラが変わるとさえ言われていた。