NHK紅白を見ながら『自分なら海外から衛星生中継するな』と
前年の1984年、『NHK紅白』は78.1%(ビデオリサーチ調べ/関東地区。以下同)を叩き出していた。民放の同時間帯の最高視聴率はテレビ朝日『今年の大晦日はコレッ!!お笑いベスト108ツ総出で紅白ぶっとばせ』(21時2分~23時18分)の3.8%で、フジテレビの『’84衛星生中継・大晦日チャリティスペシャル まるごと買っちゃえ!! 愛とロマン!世界の超豪華一流品』(21時~23時24分)は3.2%しかなかった。そんな中、疋田氏は“真っ向勝負”を挑んだ。
「毎年、『NHK紅白』を見ながら『俺だったらこう撮るな』『キャスティングはこうする』と考えていたんですよ。商売柄、自然とそう思うじゃないですか。その時、『自分なら海外から衛星生中継するな』と」
1990年になって、『NHK紅白』はベルリンから長渕剛、ニューヨークから久保田利伸とアリスン・ウィリアムズが中継で出演した。その5年も前に構想を実行に移していたのだ。疋田氏はロンドンからデッド・オア・アライブ、ロサンゼルスからシーナ・イーストンなど続々と出演者と衛星中継先を決めていく。看板に偽りなしの『世界紅白』の実現は、日本の市場価値が認められた証拠でもあった。
「衛星中継だけで相当なお金が掛かるし、歌手にギャラを払っていたらとんでもない制作費になってしまう。外タレにも『ヒットスタジオ』と同じでプロモーションの一環として出演してもらいました。逆に言えば、それでも出るほど、日本のマーケットを大切にしていたのだと思います。レコード会社の方たちも必死になって、話を持ってきてくれました」
渡米して、マイケル・ジャクソンに直接交渉することに
1985年、オリコンのLP年間売上トップ50には、『メイク・イット・ビッグ』(ワム!)、『ライク・ア・ヴァージン』(マドンナ)など10枚もの洋楽がランクイン。週間LPランキングでは1週を除いて毎週2枚以上の洋楽がベスト20入りしていた。疋田氏には、どうしてもブッキングしたいアーティストがいた。アルバム『スリラー』を世界的に大ヒットさせたマイケル・ジャクソンである。
「いろんなルートを使いました。当時、スティービー・ワンダーと何度も食事をさせてもらっていました。彼は、僕の熱心さを感じ取ってくれたようで『俺の方から話をしてあげる』と言ってくれてね。姉のラトーヤ・ジャクソンや妹のジャネット・ジャクソンにも頼みましたよ。そしたら、マイケルに直接会えることになったんです。渡米して説得に当たったけど、交渉は成立しなかった。事前にお願いしてもらっている段階で難しいとわかっていたけど、やっぱりダメでしたね。(出演に踏み切らない)理由はわからないけど、あきらめるしかなかったんです」