1958年の2月から7月が空白になっている墨田産院の資料
1988年3月に都立墨田産院が編纂し発行されたこの資料には、1952年7月に開院して閉院するまでの36年間のさまざまなデータが記されている。
年ごとの産科・婦人科の診療内容の比率などのほか、月ごとの分娩件数が表にまとめられているのだが、1958年(昭和33年)の2月から7月までの数字だけは空白となっている。そして欄外には、但し書きのように〈S33年は台帳及びカルテ(7枚のみ)紛失のため、記録不備となっている〉とされているのだ。
江蔵さんがこの病院で生まれたのは、まさにこの空白期間である。
「私が取り違えに気づくより以前に編纂されているこの資料は、東京都立図書館に収められているものです。
今回の提訴後、顔も名前も出して記者会見をして多くの新聞やテレビニュースなどで取り上げていただきました。その後はABEMAプライムの番組にも出演しました。そうしましたら、ABEMAにとある方から情報提供の電話があったそうです。年齢もご連絡先も明確に仰っている元医療関係者の方で、以前は都立病院に勤務されていた。ある時期は都立大塚病院に勤めていらしたそうなんですが、『大塚病院の地下1階の大きな倉庫に、墨田産院の分娩台帳がありました』と。『年に2回の防災訓練のタイミングでその倉庫を使うことがあったのだけれど、なぜ墨田の台帳があるのかと思った』と、その記憶を教えてくださった。
東京都は、カルテや分娩台帳などの記録は『もうない』とずっと言っています。謎が多いのです」
「都から取り違えの問い合わせは一切なかった」
2006年、前回の高裁判決が出た直後、江蔵さんは改めて東京都病院経営本部に対して実の親探しへの協力を求めている。だが、都からの回答は、「カルテ等の探索、墨田区との業務連絡など、都の立場で可能な対応を行ってきた」としつつ、取り違えや墨田産院の閉院から長い時間が経ったことなどを理由にして、その協力は拒否し続けてきた。
「ところが、墨田区に確認しても、『都から取り違えの問い合わせは一切なかった』というのです。僕にとって信頼できる区の職員の方は、『あったら記録として残るはずだし、都から要請があれば区は開示する』と。東京都が嘘の説明をしているとしたら、これもまた非常に不思議な話です」