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「行きて帰りし物語」と“成長”

『千と千尋』のような異世界の往還の物語は、「行きて帰りし物語」と呼ばれ、通過儀礼の物語としても描かれることが多い。旅に出た主人公が、試練を通じて自分の欠けていたものを見つけ、帰還する。そういう成長物語を語る時の基本構造なのだ。確かに千尋は、序盤の不満げな表情の少女から、いかにも宮崎作品のヒロインといった溌剌とした主人公へと変化していく。

 

 しかし一方で、宮崎監督は「成長」というものを描くことについて、若干の疑問を差し挟む発言をしている。例えば先述の1996年の企画検討会の時の発言。題材となった「死神の成長」を描くことについて次のように語っている。

「死に神の成長とか何かとかね。そうすると成長って何だろうってことがもう一回問われる。本当に人は成長するのかというテーマもありますからね。それはある時期の幻影なんじゃないか。年を取ることは出来るけど、成長できないとか」(『「もののけ姫」はこうして生まれた。』)

「子供が成長するというのはどんどん自分の可能性を失っていくことです」

 また当時のインタビューでは次のように語っている。

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「子供の成長をすべてとするのはおかしいんですよ。子供にはいろいろな可能性があるけれど、成長したらつまらない大人になる。子供が成長するというのはどんどん自分の可能性を失っていくことです。随分悲観的な見方のようですけれど、ある種のものになっていく、ということは殆のものをなくすことですよ。何にでもなれた筈なのだから」(『千と千尋の神隠し 千尋の大冒険』)

『耳をすませば』で主人公の雫(右)に語りかける西老人

 この言葉は、宮崎が絵コンテを手掛けた『耳をすませば』(近藤喜文監督)の西老人と主人公・雫の会話にも通じるものがある。ここで大事なのは、こうした発言の背後には“成長”という形で安易にお話をまとめることが、世界の実相を捉え損なってしまうことに繋がるという慎重な姿勢だ。

 千尋は、湯屋のある世界に行き、そこで世界の実相に触れ、幸運にもその世界に食い尽くされてしまうことなく、ハクと自分にまつわる、いちばん大事な記憶を思い出す。ハツラツと変化した千尋だが、この「思い出す」という行為は、明らかに“成長”の産物ではない。