このように宮崎監督の言葉を追っていくと、終盤のトンネルのシーンによって、湯屋での経験がまるで夢のように演出された意味が浮かび上がってくる。
トンネルのシーンがフェードインから始まる序盤の“繰り返し”として描かれていなければ、『千と千尋』はストレートな「行きて帰りし物語」になっていただろう。しかし、湯屋での千の経験と現実の千尋の間には、フェードインという明快な境界線が引かれてしまった。それは「帰還」という物語の構造が曖昧になり、『千と千尋』が「行きて帰りし物語」という構造から少しはみ出すこということでもある。
その結果、湯屋での千の経験は「彼女の欠けた部分を埋める試練」ではなく「一生にその時しかできない大事な経験」で、しかもそれは「夢のように目覚めたら消えてしまうような経験」であった、という意味合いが強く示されることになった。終盤のトンネルのシーンの演出が、本編の持っている意味を決定付けているのである。
「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」
では、千尋は千であった時のことを忘れてしまっただろうか。決してそうではない。ここで物語の重要人物である銭婆の台詞が意味を持ってくる。
「一度あったことは忘れないものさ。思い出せないだけで」。
思い出せなくなっても、その時の記憶は必ず体の中に残っている。現に千の時の彼女は、自分の体の中に眠る記憶を突然思い出し、ハクを救ったのだ。
あの時と同じで、千としての経験は千尋の体の中に残っている。ただ彼女は、凡庸な人間として成長する過程で、その記憶を思い出せなくなっていくのだ。だが、あの10歳の時の宝石のような経験は決してなくなることはない。
子供時代の経験とは、大人へと成長するための材料などではない。子供であったその瞬間にとってかけがえのないものなのである。そしてカエルのようになって働く大人たちの中にも、その子供時代の経験は眠っているのだ。思い出せないだけで。だからそのことを伝えるように、現実に戻ってきた後も、千尋の髪に、銭婆からもらった髪留めが静かに光っているのである。
宮崎監督はこのような映画を通じて、映画のインスピレーションを得た、知人の娘である「10歳のガールフレンド」のための物語を描き、それによって世の子供たち、ひいてはかつて子供であった大人たちの人生を寿いだのだ。
画像=スタジオジブリHPより