「すごい弟子を預かった。この子は番付のてっぺんまで行くかも」
この日は5勝1敗で迎えた最後の7番目の相撲を午後に控えていたにもかかわらず、光法の紹介もあって「時間は全然ありますよ」と快く取材に応じてくれた。摂津倉庫幹部の話をそのままぶつけたら、より詳細に説明。紛れもなく帰国やむなしの状態からモンゴル勢のパイオニア、当時の幕内旭鷲山の奔走で外国人力士枠に空きがあった宮城野親方(元幕内・竹葉山)に半ば拾われる格好で力士になれた。来日当初は体重わずか62kg等々、今では周知の事実となったエピソードが次々と出てきた。
そして「僕のお父さん、モンゴルではすごい人なんですよ。聞いたことなかったですか?」と笑みを浮かべ、父のジジド・ムンフバト氏について言及。モンゴル相撲で往年の大横綱であること、レスリング選手としては1968年メキシコ五輪で2位になって母国初の五輪メダリストに輝いたことなど、その場は半信半疑だったが、すぐに調べて事実と確認できた時の興奮は忘れられない。途方もない素材、豊かな血筋、紙一重の差で力士になった数奇な運命……。すぐそばで「すごい弟子を預かった。この子は番付のてっぺんまで行くかも」と口をとがらせ、右手の人さし指を頭上へと突き出した師匠の宮城野親方の目は笑っていなかった。稽古後に塩ちゃんこをいただいた席では、光法は「ダワは見たら分かるでしょう。昨年から『3年後に三役』と言っても親方は最初信じてくれなかったけど、最近は『賢一(本名)、おまえの言う通りだ』だからね」と高笑いしていた。
白鵬は6勝目を挙げたものの、通常の場所なら新十両昇進は次へ持ち越しだった。それが翌場所からの公傷制度撤廃に伴う関取定員増の措置により、幸運な形で関取の座をつかむ。私は当時、大相撲専門誌で幕下以下のホープを1ページで紹介するコーナーを担当しており、とっておきの逸材として白鵬の登場機会をうかがっていた。だが未来の横綱候補はそんな隙すら与えてくれず、1年後に新小結、2年後の春には新大関、3年後の初夏には新横綱へと昇進。悔やむ私に光法は目を細めつつ「取材が出世に追いつかなかったね。ダワは羽ばたいた。成長の速さがとんでもなかったということだよ」と優しく慰めてくれた。
「これは本物だ」と確信を得た稀勢の里との初対決
猛スピードの出世の過程で「これは本物だ」と確信を得た一番がある。初めて取材した場所よりも1場所前、03年秋場所13日目。東幕下23枚目の白鵬は、2カ月前に17歳になったばかりの萩原と5勝1敗同士で初めてぶつかった。萩原とは、言うまでもなく後の横綱稀勢の里(現・二所ノ関親方)だ。