最終的に幕内で通算60度もの激闘を繰り広げた両雄の初対決は、好角家の間では今でも語り草となっている。押し込んだ萩原と、土俵際で逆転を狙った白鵬が同体で取り直し。この一番は壮絶な攻防となり、萩原の猛攻を白鵬は柔軟な足腰でさばいて残しながら組み止める。構わず前に出る相手を切り返しで土俵にたたきつけた。若さと意地、将来性と純粋な気迫が土俵上でほとばしっていた。日本代表の星に対し、モンゴル出身のサラブレッドは見る者に鮮烈なインパクトを残し、尋常ではない運動神経や勝負勘に胸が躍った。審判部のある親方は「17歳と18歳か。この2人がずっと競い合えば相撲界は盛り上がるよ」と興奮を隠せないような口調だった。
二所ノ関親方はこの初対決について、あまり覚えていないという。「あの頃はただただ必死で、その日の一番一番を全力で闘うしかなかった。負けた悔しさは覚えている」と話す。いわゆる“稀勢の里らしい”感想だ。それでも一つだけ目に焼き付いたものがあった。白鵬の両膝付近だ。「内ももから膝にかけての筋肉がすごかった。大きくて、柔らかさもありそうだった。下半身が相当に強いんだろうなと感じた。実際に土俵際の粘りはかなりのものだった」と述懐した。
「相撲社会の大先輩に何てことを言うんだ」と怒った父のげんこつ
金色の原石は日に日にベールを脱ぎ、日の出の勢いで強くなった。周囲の対応も出世のスピードについていけないほどの過程で、今にして思えばしみじみと考えさせられる場面があった。
19年名古屋場所限りで日本相撲協会を定年退職した元特等床山の床蜂こと加藤章さん(67)は宮城野部屋に所属し、白鵬のまげを新弟子時代から長年結い続けた。
新十両昇進披露パーティーのある日。両国国技館大広間の控室で大銀杏を完成させると、当時18歳の白鵬は「ここをもっと出してほしい」と頭の右側を指差した。すると隣で見ていた父のムンフバト氏が「相撲社会の大先輩に何てことを言うんだ」と怒り、息子の頭にげんこつを見舞ったという。さらに「これからずっとお世話になる人だから、ちゃんとあいさつをしなさい」と諭した後、加藤さんには「こういう息子ですが、どうかよろしくお願いします」とモンゴル語の通訳を介して頭を下げた。
ここから始まる栄光への道。長期にわたる全盛期で、来日当初は細くて目立たなかった少年が地位も名誉も記録の数々も手中に収めることになる。だが若き日に容赦なくげんこつを振るってくれた偉大な父をはじめ、耳の痛いことを諭す人物が相次いで逝去。真のライバルも不在という土俵に君臨し続け、白鵬は角界の混乱期に孤独な1強時代を歩むことになる。(#2へつづく)
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