広い本殿に歴史を感じさせる焦げ茶色の柱、薄緑色のキャンバスのように美しい畳。当日の朝8時すぎから伝達式会場は部屋関係者に後援者、報道陣ら大人数で埋め尽くされていた。大関昇進を承認した日本相撲協会臨時理事会と番付編成会議が開かれた大阪府立体育会館から「そろそろ使者が出発する」との一報が入ると、場の緊張感は一気に高まってくる。
「これだよ。大関の顔だよ。今日で顔が変わったんだよ」
その時だった。金屏風の右斜め後ろのふすまをガラリと開け、黒の紋付きはかま姿の白鵬が現れた。「おはようございます」との小さな声とは裏腹に、全身から漂わせる雰囲気がまるで違った。口元をきゅっと結び、眼光は鋭い。大銀杏はいつも以上にびしっと決まり、あどけなさはすっかり消えていた。会場からはどこからともなく「うわあ……」という驚きのようなため息が漏れ、私の隣にいたベテラン相撲記者は「これだよ。大関の顔だよ。今日で顔が変わったんだよ」と上気した表情でうなっていた。
モンゴルから来日当時は誰の目にも留まらず、180cm、80kgと小さな体で初土俵を踏んだ少年はこの時、192cm、152kgとすっかり別人になった。21歳0カ月での昇進は貴乃花、大鵬、北の湖という後の大横綱に次いで昭和以降4位の若さ。すぐそこにある最高位への一本道がくっきりと浮かんだ。咲き始めの桜、春の青空と陽光がきりりとした顔つきの新大関を照らし、まさしく前途洋々との言葉が白鵬を包み込んでいた。
大鵬と貴乃花を合わせたような攻守兼備の理想的な取り口
大関を7場所で通過し、07年夏場所後に第69代横綱に昇進した。22歳2カ月での到達は貴乃花を抜き、北の湖と大鵬に次いで史上3位の若年齢だった。粘り腰を生かした逆転で「守」が目立った10代、右四つ速攻に主眼を置いた三役時代を経て、この頃になると右四つ中心ながら左四つでも突き、押しでも力を発揮。圧倒的な勝ちっぷりもあれば、負けない強さも出てきた。大鵬と貴乃花を合わせたような攻守兼備の理想的な取り口へと仕上がっていった。
大鵬が語った「裸の王様になったらいかん」との戒め
いわゆる「サッカー騒動」など土俵内外の不祥事が絶えない先輩横綱の朝青龍を横目に優勝回数を重ね、成績面は申し分なかった。心配されたのは土俵外だった。充実の一途をたどる若き横綱に対し、昇進直後の場所前から警鐘を鳴らしていた人物がいた。
史上1位(当時)の優勝32回を誇る昭和の大横綱大鵬、納谷幸喜氏である。白鵬が「日本の父」と慕う同氏は21歳3カ月で番付の頂点を極めた自身の経験を踏まえ、力説していた。
「21歳、22歳といえば普通は大学生の年齢だろう。ただどれだけ若くても、横綱というだけで政治家や大企業の社長、高名な学者、芸能人、スポーツ選手など社会的地位の高い人や華やかな人と会える。これは自分の財産になるし、勉強にもなる。しかし怖いのは、ひいきの引き倒しのような人もいるということだ。横綱に遠慮するあまり、怒ってくれる人は自然と減っていく。裸の王様になったらいかんということだ」
大鵬氏は同時に朝青龍の今後を「非常に心配だ」などと案じており、図らずも悪い予感は数年後に当たってしまった。