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 他人にどう思われているか。できるならば全員に好かれたい―。これだけ相撲で実績を残しているのだから、万人に認められたいという「承認欲求」が強いことを物語る逸話だ。かつての名床山は「寂しがり屋で人懐っこくて真面目。いい人間であるのは確か。ただ『俺がいなければ始まらない』という考えは捨てた方がいいよと言わせてもらったことがある」と独走状態ゆえに陥りやすい落とし穴を指摘した事実を証言。大横綱はこういう存在に支えられてもいた。

苦言や助言を率直にぶつけてくれた人たちが次々と…

 白鵬は基本的に素直な性格だから、褒められても叱られても吸収しようとする。さらに「この人には頭が上がらない」と尊敬する先人であれば、なおさらだ。しかし不幸にも13年に納谷氏、15年に北の湖理事長(当時)、16年に九重親方(元千代の富士)と大横綱の先輩が相次いで死去。横綱らしからぬ振る舞いが感じられた時や稽古が不足している際には直接的、間接的に苦言や助言を率直にぶつけてくれた人たちだった。

千代の富士 ©文藝春秋

 そして関取になっても息子にげんこつを見舞った父のジジド・ムンフバト氏は18年にこの世を去った。白鵬の心の拠り所はいよいよ勝利という結果に集約され「鬼になって勝ちにいく」という発想へと至る。本来の姿とは違う自分を追い求めることで余裕が失われ、皮肉にも問題行動が重なっていく。審判部批判発言、敗れた後に立ち合い不成立のアピール、土俵下の優勝インタビューで万歳三唱や三本締めを観客に促す行為のほか、17年秋の横綱日馬富士による幕内貴ノ岩暴行事件では関与が認められた。厳重注意など処分は定番化。同時に肘を相手の顔面にぶつける立ち合い、粗暴な張り手、危険な駄目押しも急増し、ここに右膝などの故障が重なって休場も珍しくなくなった。

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白鵬 ©文藝春秋

 栄光の20代を終え、30歳を超えた白鵬の土俵の内外はぐらぐらと揺れ始めた。それでも「横綱は日下開山だから」と自己暗示をかけるように念じた。「天下に並ぶ者がいない」とする最高位の称号を支えとし、なりふり構わず挑戦者たちを退けた。それは「自分にしか分からない境地もある」と語る白鵬流の矜持でもあった。勝利至上主義ともいえる力士晩年の闘いぶりが「横綱論」に発展し、歴史的にも極めて異例の引退劇という「我が道」を花道として自ら選んだ。(#3へつづく)

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