ルッキズムだけではなく「主人」「旦那」や「奥さん」のように、性別によって立場や役割を決めつけるような言葉も使わないほうがいい、とされているとか。
私に言わせれば、その程度でワーワーと騒ぎ立てるほうがおかしい。それこそ本当の言葉狩りになってしまいます。
1993年ですから、いまから30年ほど前になりますが、私はこんなことを書いています。
〈小説に美人が登場しても差別につながるという常識が一般化した社会を想像することもでき、そんな想像を現実よりも先にしてしまうのが「炭坑のカナリヤ」としての作家であろう〉
「炭坑のカナリヤ」というのは、炭坑夫がガスの突出をいち早く知るためつれて入る、ガスに敏感なカナリヤのことで、これは私が発表した「断筆宣言」の一部です。
〈93年、国語教科書に掲載された筒井氏の短編「無人警察」に対し、日本てんかん協会が〈てんかんに対する差別を助長し、誤解を広める〉として抗議したことを契機に、筒井氏は「差別表現への糾弾がますます過激になる今の社会の風潮は、小説の自由にとって極めて不都合になってきた」として、「筆を断つことにした」と宣言した。〉
〈筒井氏は、てんかん協会と2度、往復書簡を交わして、互いの権利を尊重することで合意したが、断筆はその後も3年以上も続いた。解除されたのは96年。角川書店、新潮社、文藝春秋の3社と、「著者に断りなく表現を変えない」「抗議があった場合は著者の意思を充分に尊重して対処する」といった内容の覚書をかわして、執筆が再開された。〉
このとき「断筆しろ」と向こうが言ったわけではありません。こっちが勝手に、半分おもしろがってやったのです。すると向こうが驚いたし、こちらも向こうが驚いたことに驚いた(笑)。
個人が批判的なことを言ってくることは、その前からありました。しかし、あの時は、れっきとした団体が自分たちの名前を出して批判してきたので、これは、いかんなと思い、自分の立場を守り、表現の自由のために、真摯に対応しました。和解後も断筆を続けたのは、取材しておきながら小生の意見を少しも報道せず、その後もひたすら自主規制に走るマスコミの姿勢に不満があったからです。