ケアを志望して就職した労働者が、こんな現状に疑問を抱くのは、人として当たり前のことだ。しかし、丁寧なケアを大事にしたり、そのためにも自らの生活や健康に気を使ったり、ましてや労働者としての権利を主張したり、利用者への虐待や不正を告発するような労働者は、過酷な労働環境に染まり切った職場にとって「敵」であり、いじめのターゲットになってしまう。経営者や管理職にとってはもちろんのこと、従順な同僚にとっても、逼迫した労働環境のなかで、周囲の負担を増やして「迷惑をかける」「許しがたい」存在として映ってしまう。職場の厳しさを思い知らせるか、追い出さなければならない……。そこでは、上司や先輩の指示が不条理であっても、とにかく黙々と従う労働者であることが理想とされるようになる。
さらに、かつてはケアに理想を抱いていた労働者が「被害者」となったのち、やがて新たないじめの「加害者」に変貌していくこともある。あるいは、ケアへの希望を捨て、失意のまま、職場どころか業界からも去っていくことになる。このように、過酷すぎる労働と、踏みにじられるケアの矛盾を背景に、いじめが常態化しているのだ。
「新しい資本主義」で、ケアはさらに崩壊する
2022年初頭のいま、岸田政権が「成長と分配」を掲げ、介護・保育労働者の賃金を9000円上げるとアピールしている。「9000円」とは雀の涙でしかないが、職員数の配置基準を上回って職員を配置している職場では、9000円すら行き渡らないだろう。そもそも、園児数に対して職員数が少なすぎる配置基準を改善する必要がある。さらに保育では、行政から人件費分として支払われる運営費から経営者が「中抜き」することに規制をかけたり、賃金に適正な基準を設けたりしなければ、民間の保育園では月給20万円程度の低賃金労働が氾濫するばかりだ。
一方、岸田政権では、介護施設において、IT技術の導入で「生産性」を高めることによって、職員の入居者に対する配置基準を1人対3人から、1人対4人に緩和することが検討されている。テクノロジーは、労働者や利用者の負担の減少や、安全なケアのためにこそ使われるべきではないのか。
また、保育政策では、行政が保育園の現場に赴いて行う監査を廃止することが検討されている。ただでさえ、保育行政の監査は骨抜きになっている実態があり、不適切保育や虐待、不正の隠蔽がますます加速するだろう。
ここで政府や経済界が目指しているのは、企業がもっと稼ぎやすいようにケアの規制緩和と市場化を推し進めることであり、現場にもたらされるのは、これまで以上の労働者の使い潰しであり、ケアの軽視だろう。一人数千円の「分配」と引き換えに、いじめも、労働環境も、ケアの質も、ますます悪化していく。労働者を酷使し、人々の生活を下支えするサービスを歪めて、社会の土台を掘り崩してしまうにもかかわらず、日本経済はケアを犠牲にした「成長」に固執している。そこで求められる人材は結局、何事にも文句を言わない労働者なのだ。