その名簿に名前の出たフー・ニム情報相は、4月10日に逮捕された。逮捕当日の供述調書でフー・ニムは「党とポル・ポト、ヌオン・チア、イエン・サリ、ボン・ベト(ポル・ポト時代の経済担当副首相)、ソン・セン宛て」に自らの無実を訴えた。
「4月17日の解放記念日を祝うために準備していたところ逮捕され驚いている。コイ・トゥオンのことや新党のことを聞かれて、敵にまわされたと気づいた」
「監禁されてもいい。ただ、足枷は外してほしい」
「私は、党を裏切ることなど考えたこともない。CIA、帝国主義者、ベトナム、ソン・ゴク・タンの手先になったことはない。私は、死ぬまで真実を曲げない」
拷問が始まった。
4日後、取調官のポンは、S-21の所長ドゥイ(本名、カン・ケク・イウ)に対し「4、5回殴ってから水責めにした」と報告している。
2週間後、フー・ニムは、党に対する「裏切り」を「自供」する。
「私はCIAのエージェントだった。党内部を破壊するために長い間活動をしていた」(4月22日)
しかし、拷問は終わらなかった。
取調官は、調書に次のような意見を付け足している。
「CIAだと自白したが、まだ仲間の名前をはいていないので拷問を続ける」
フー・ニムは、その後も「自供」を続ける。5月28日と6月16日の調書によれば、彼の党に対する裏切りは次のようなものだ。
57年からCIAのエージェントになったフー・ニムは、67年に「マルクス・レーニン主義・CIA党」を設立した。この「マルクス・レーニン主義・CIA党」は、コイ・トゥオンが設立した「CIAの労働者党」に合流。ベトナムともコンタクトをとり、プノンペン解放前からカンプチア共産党に反逆する機会をうかがっていた。そして、プノンペン解放後、このネットワークに北西部地方書記のロス・ニムと東部地方書記のソー・ピムが加わり、クーデターの計画を立てる……。
こうしたスパイ小説でも採用しそうにない供述がいかに馬鹿げたものかは、少しは教養のある人ならわかるはずだ。シアヌーク時代に閣僚を務めたこともあるポル・ポト政権きってのインテリと見られていた彼が、自らこんな供述をするはずはない。
フー・ニムは、最後にこう記している。
「この1カ月半、私は党から多くの教育を受けました。私が頼れるのはカンプチア共産党だけです。どうか私に寛大な処置をお願いいたします。命は党に預けました。もし、この報告に間違いがあったとしたら、どうかお許しください」
フー・ニムは、7月6日処刑された。