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1万4000人が収容されて生き残れたのは7人だけ…ありとあらゆる“拷問用具”がそろった「尋問センター」で行われていた恐ろしすぎる“粛清”とは

『ポル・ポトの悪夢 大量虐殺は何故起きたのか』より #1

genre : エンタメ, 読書

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学校を政治犯の収容所に

 プノンペンの住宅地の中にあるツールスレン中学校跡地は、今、ポル・ポト時代の虐殺を告発する博物館となっている。ポル・ポト時代、ここは、政治犯の尋問センターとなり、S-21というコードネームで呼ばれた。少なくとも1万4000人が収容されたが、生きてここを出られたのは、ポル・ポト政権が崩壊した際に残っていた7人だけだった。

 展示物の中でとりわけ訪れる人々の心を打つのが、膨大な数の犠牲者の写真である。党の最高幹部から官僚、兵士、そしてその家族、子どもにいたるまで、逮捕された人々は顔写真を撮影されたあと、尋問され、殺害された。写真に撮られた「政治犯」たちは、今、ひたすら無表情にこちらを見つめている。その一人ひとりの目が、謂われない罪に問われ非人道的な行為によって殺害された無念さを訴えかけている。この夥しい数の目に向き合う時、私は、人間そのものが持つ狂気の深淵を垣間見たような気がして息苦しくなる。

 拷問に使われた道具も展示されている。何十人もの囚人を一列につなぐための足枷、水責めのための桶、爪を引き剥がすために使われたやっとこなど、ありとあらゆる拷問の道具がそろっている。ポル・ポト時代が地獄だとすれば、ここは、まさに地獄の中の地獄だった。

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 S-21で何がおこなわれていたのかを示す資料は、大量に残されている。ここで作成されたおよそ4000人分の尋問調書だ。手書き、あるいはタイプで打たれた調書は、米コーネル大学によって調査分類された上でマイクロフィルムに収められ、各国の研究者によって分析が進められている。この供述調書の山は、ポル・ポトが組織的におこなった粛清の犯罪性を明らかにする最も重要な証拠になっている。

拷問と粛清の日々

 1967年9月に始まった幹部粛清の嵐は、年が明けるとさらに強まった。77年1月25日には元商業相で北部地方書記だったコイ・トゥオンが逮捕された。北部地方はこの年、中部地方と名を変え、コイ・トゥオンの後釜には北部地方の軍司令官だったケ・ポクが就いた。コイ・トゥオンに近い幹部はすべて粛清され、そのあとをケ・ポクの配下が取って代わった。

 ツールスレンの尋問センターで、コイ・トゥオンは、ネイ・サラン(76年9月に逮捕済み)の提案で、カンプチア共産党に対抗するための新党「新カンボジア社会党」を設立する計画を立てたと「自白」した。その政治方針は、「私有財産所有の制限を緩めること」、「市場を再開し、プチブル的な商売の機会を与えること」、「通貨を流通させること」、「アメリカを含めて西側、東側、非同盟諸国からの援助を受けること」だった。この計画には19人の同志が賛成したとしてコイ・トゥオンはその名前を列挙した(3月4日の供述)。