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大量虐殺の幕開き

 粛清された彼らの出身母体・クメール・イサラクは、ベトナムの共産主義者たちによって指導されたインドシナ共産党直系の組織だった。ポル・ポトの目には、革命の妨害活動をおこなうスパイと、憎悪の対象であるベトナムの姿が二重写しになり始めていた。

 それを裏づけるように、ポル・ポトは、ちょうどこの頃党の歴史の書き直しをおこなった。1951年の人民革命党の設立は、インドシナ共産党の指導のもとでおこなわれ、ポル・ポトらパリ留学組は関わっていなかった。ポル・ポトは、この51年の党の設立を否定し、党はポル・ポトらも参加した60年の党大会で正式に設立されたのだとするよう、党史の書き換えを命じたのである。それが明らかになったのは、古参幹部の粛清が始まったばかりの1976年9月30日、結党25周年の式典の日だった。

 当時、東部地方の幹部だったヘン・サムリンは、この日のことをよく覚えている。

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「我々は、9月30日に式典をおこなうため、振る舞う食事などの準備を進めていたが、午前0時頃になって突然テレックスが入った。ポル・ポトが式典をおこなわないように命令してきたのだ。しかし、連絡が間に合わず、式典をおこなってしまったところもあった。

 その半月後、ポル・ポトは1960年を党の正式な設立記念日とするよう命令を出した」

 カンプチア共産党とインドシナ共産党のつながりを断つこの党史の書き直しは、党内の粛清を容易にするねらいを持っていたとみられる。ポル・ポトらが関わる1960年以前に党に所属していた活動家は、今や古参党員という名誉を失っただけでなく、憎むべきベトナムの党に参加していた危険人物として、粛清の恐怖に脅えることになったのである。

 12月20日、すでに首相に復帰していたポル・ポトは、党幹部に向けてこう演説した。

「党が病気にかかっている。(中略)我々は、党内の病原菌を見つけようと躍起になったがだめだった。やつらは隠れている。我々は、社会主義革命をさらに前進させ、党、軍、人民にいたる隅々にまで浸透することによってしか、やつら醜い細菌を突き止めることはできない」

 そして、ポル・ポトは、あらゆるレベルでの「病原菌」の摘発を指示した。「内部の敵」に対する宣戦布告だった。

「我々は、入念に事を進めなければならない。1人や2人の悪い経歴を持つ人間を失うことを恐れてはならない。(中略)もし裏切り分子たちを一掃できず、やつらの勢力拡大を許すことになれば、やつらは社会主義革命の進路に立ちふさがるだろう。裏切り者勢力を駆逐することが、社会主義革命の偉大な勝利につながるのだ」

 「内部の敵を探せ」というオンカーの命令がカンボジア全土に下された。後に世界を震撼させる大量虐殺の幕開きだった。