殺人のシステムはなぜ稼働したのか
ポル・ポト政権時代の殺人マシーンとなったS-21拷問センターの所長ドゥイは今も生きている。1999年5月カンボジア政府に逮捕される直前、彼は香港誌ファー・イースタン・エコノミック・レビューの取材に応じ、フー・ニムの逮捕は「党中央委員会」の決定だったと明らかにした。当時の中央委員会メンバーの一人イエン・サリは、我々の取材に対し「フー・ニムは、CIAの活動をしていた証拠が見つかり逮捕された。そういう報告を受けた」と、逮捕の事実を知っていたことは認めた。しかし、彼に粛清の決定権はなかったと強調した。
「S-21という機関のことは知っていたが、内部の状況はよくわからなかった。私はフー・ニムを助けてあげたかったが、ポル・ポトが怖くて何もできなかった」
ドゥイのインタビューによれば、直接彼に処刑の命令を下していたのは、国防・治安担当のソン・センと党組織担当のヌオン・チアだった。特にヌオン・チアは虐殺の「主犯」で、「イエン・サリとキュー・サムパンには処刑を決定する権限は与えられていなかった」という。その意味で、党の序列第3位のイエン・サリでさえ粛清の対象となりうる立場にあった。イエン・サリは、自分も常に恐怖にさらされていたのだと主張した。
「私は、ポル・ポトに『まだ西側の思想が残っている』と疑われたことがあった。外国を訪問して帰国する際に、いつもボン・ベトが出迎えをしてくれたが、時々、仕事の都合で彼が現れないことがあった。私は、彼が現れないことで、そのままほかのところ(S-21)に連れていかれるのではないかと心配したものだ」
だが、特に大物幹部の粛清については、イエン・サリ自らが認める通り報告を受ける立場にあった。かつての仲間が次々と粛清されるのを目の当たりにして、なぜ何もしなかったのか。改めて問い質すと、イエン・サリは憮然とした表情で答えた。
「その時、もしポル・ポトを止めていたら、私は彼の顔を2度と見ることができなかっただろう。
なぜ私はポル・ポトに抵抗しなかったのかと聞かれれば、『できなかったからだ』としか答えられない。当時、もし党に抵抗すれば、道は死しかなかったのだ」
誰も止める者がいないまま、処刑の歯車だけがフル回転していたのである。
【続きを読む】杭に縛りつけて目隠しをし、口をふさぎ、腹を裂いて…“残虐すぎる処刑”の片棒を担いだ男性が明かすポル・ポト流「恐怖支配システム」の実情