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杭に縛りつけて目隠しをし、口をふさぎ、腹を裂いて…“残虐すぎる処刑”の片棒を担いだ男性が明かすポル・ポト流「恐怖支配システム」の実情

『ポル・ポトの悪夢 大量虐殺は何故起きたのか』より #2

genre : エンタメ, 読書

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 極端な共産主義思想を推し進めるポル・ポト政権では、革命の進路に立ちふさがる可能性があると考えられる者に対し、苛烈かつ不条理な粛清が繰り返された。多くの自国民に死をもたらした恐怖支配の実態とは……。

 ここではNHKで報道番組制作に携わる井上恭介氏、藤下超氏の著書『ポル・ポトの悪夢 大量虐殺は何故起きたのか』(論創社)より一部を抜粋。ポル・ポト政権下の農村で起こった悲劇、そして「密偵長」という役割を担った男性の証言を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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ポル・ポト時代のモデル地区

 私はカンボジアの農村が好きだ。プノンペンのようなごみごみとした都会にはない、一種の清潔感が農村にはある。電気も水道もない代わりに、無用なごみもない。ビニール袋など使わず、バナナの葉で食べ物を包み、食べ残しはすべて鶏や豚など家畜のえさとなる。当然のことながら、ペットボトルなど転がっていない。そして何よりも農村の人々は、素朴で人がいい。私のような外国人が話を聞きに訪れても嫌な顔一つせず、家にあげてくれる。そして必ずと言っていいほど、家でとれたヤシの実のジュースやマンゴーをごちそうしてくれるのである。

※写真はイメージです ©iStock.com

 そのトラムカック郡(編集部注:タケオ州に位置する郡。南西部地方書記タ・モクの故郷)には、今もポル・ポト時代の刑務所の痕が残っている。105再教育センター、または、その地名をとって「クランタチャン刑務所」と呼ばれた。この刑務所は、人目を避けるためか、水田から離れた森の中に造られた。跡地周辺には今も木々が残っていて、乾季の強い日差しを避けてくれるが、開墾が進んだ結果、刑務所跡の敷地にまで水田が迫っている。

 水田と刑務所跡地の境界付近に、真っ白な髑髏が無造作に転がっていたのを見て驚いた。地元の人によれば、水田を広げるため地面を掘り起こすと、今でもあちこちから人骨が出てくるのだという。ここで処刑されて埋められた受刑者の亡骸だ。刑務所跡に建てられたあばら家には掘り出された骨が無造作に積み上げられていた。殺害された人々の正確な数はわからない。3000人と言う人もいれば、1万人と言う人もいる。

 平和な農村に転がる真っ白な髑髏。このミスマッチは何だろうか。そのギャップを埋めるため、私は住民たちから何とか話を聞き出そうとした。しかし、ポル・ポト時代のことに話が及ぶと、彼らの多くは決まって口をつぐんだ。そこには、ポル・ポト時代にモデル地区と呼ばれた村に住む旧人民たちの、口にするには重すぎる過去の記憶があった。

優遇された南西部の幹部たち

 カンボジア語で南西の方向を意味する「ニアラダイ」という言葉がある。この「ニアラダイ」という言葉は、ポル・ポト時代、残虐な指導者を示す代名詞になった。理由は、南西部地方書記だったタ・モクがとりわけ残虐な指導者だったからだけではない。ポル・ポト時代後期、南西部の中級幹部たちがカンボジア各地に指導者として送り込まれ、党中央の手足となって地方幹部の粛清に邁進したからである。

 南西部がポル・ポト政権によって優遇されたのは、早い時期からクメール・ルージュの「解放区」となり、73年からサハコーの建設と農民の集団化が進められたことに加えて、タ・モクとポル・ポトが早くから信頼関係を結んでいたためだろう。特に、トラムカック郡はタ・モクの出身地ということで優遇され、ポル・ポト時代にはモデル地区と呼ばれた。