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杭に縛りつけて目隠しをし、口をふさぎ、腹を裂いて…“残虐すぎる処刑”の片棒を担いだ男性が明かすポル・ポト流「恐怖支配システム」の実情

『ポル・ポトの悪夢 大量虐殺は何故起きたのか』より #2

genre : エンタメ, 読書

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 ただ、トラムカック郡の旧人民全員が政権から優遇されたわけではなかった。旧人民は「全権利人民」と「半権利人民」に分けられた。「全権利人民」とは、旧人民の中でも経歴に汚れのない者。例えば、親戚にロン・ノル時代の公務員などがいる場合は「半権利人民」と呼ばれた。さらに「全権利人民」内部の階級分けもおこなわれた。階級分けのために、76年秋頃から「政治教育」が始まった。政治教育を受けたことのあるトラムカック郡の住民チン・ソンさんは、次のように話す。

「政治教育は、人目につかない森の中でおこなわれた。将来の指導者に国の政治方針を理解してもらうための教育だった。『政府に参加して労働者と農民による国をつくろう。帝国主義を粉砕しよう。すべての私有財産を放棄しよう。子どもは私有財産ではない。1人が子どもの世話をすると、労働力が1人失われる』などと教えられた。その結果、子どもは違う場所で集団生活を余儀なくされた」

 チン・ソンによれば、この教育結果に応じて、全権利人民が「第一級全権利人民」と「第二級全権利人民」に分けられたという。チン・ソンは「第二級」になって村に残ったが、「第一級」になると他の地域に党の指導者として送られた。

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「政治教育を卒業した者は、選ばれた住民として各地に送り込まれた。なぜタケオから人が選ばれたかというと、タケオは最初に解放された地域だからだ。最も早く共産主義に触れて目覚めたからだ」

 南西部の「第一級全権利人民」は筋金入りの幹部とされた。

 最初に彼らが送られたのは北西部だった。75年末、数十万人の「新人民」が北西部に移動させられ、その多くが餓死した。党中央は、「党の政策に従わずに飢餓を引き起こした」と北西部幹部を批判し、引き締めのため、タ・モクの部下である南西部の「第一級全権利人民」を送り込んだ。それまでいた地元の幹部は粛清され、そのあとに南西部出身者が収まった。当時北西部にいた新人民ウィ・エットさんは南西部幹部たちがいかに優遇されていたかをよく覚えている。

「新しい指導者グループはみんな南西部からの人たちだった。彼らはまるで外国の大使が来た時のようにものすごく歓迎されて、祝宴が催された。各村からは野菜や肉が集められ、州や郡、村レベルでの祝宴が何カ月も続いた」

 しかし、南西部からの指導者は、それまでの指導者にも増して残虐だった。エットは続けた。

「彼らは、おおっぴらだった。人々を自分の家の裏庭に連れていき、杭に縛りつけて目隠しをし、口をふさぎ、腹を裂いて殺した。その内臓を酒につけて食べたりもしていた」

 パイリンやアンロンベンといったポル・ポト派の支配地域には、今でもトラムカック郡をはじめとするタケオ州の出身者が多い。当時「第一級全権利人民」として地方に派遣された中級幹部たちの多くが、ポト派幹部としてジャングルに逃げ、今もかつてのポト派支配地域で暮らしているのだ。

 トラムカック郡に残ったかつての旧人民たちも、ポル・ポト時代のことになると誰も話したがらない。ポル・ポト時代に自分たちが優遇されたという後ろめたさに加えて、自分たちの村そのもので起きた虐殺の事実が、彼らの口をいっそう固くしているのである。