1973年より民主カンプチアの首相に就任し、政治勢力クメール・ルージュ(オンカー)の指導者として極端な共産制を推し進めたポル・ポト。彼が理想体現の手段として引き起こした大量虐殺は人類史に残る非道な歴史だ。

 ポル・ポトが主導した残虐行為は何故止められなかったのか。ここでは、かつてのカンボジアで起きた悲劇を追った井上恭介氏・藤下超氏の共著『ポル・ポトの悪夢 大量虐殺は何故起きたのか』(論創社)より一部を抜粋。ポル・ポト派による大量虐殺が起きた背景を探る。(全2回の1回目/後編を読む)

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回りはじめた粛清の歯車

 1967年は、年明けから奇妙な事件が相次いでいた。2月25日には、北部のシエムリアップで2回にわたって大きな爆発があり、15人が死亡、30人が負傷した。ポル・ポト政権は、アメリカの戦闘機による爆撃だと非難したが、真相は明らかになっていない。ベトナムによる攻撃説、タイによる謀略説、さらにはシエムリアップで計画されていた軍の反乱にポル・ポト政権指導部が先手を打って爆撃した説など、さまざまな憶測が出た。

 続いて4月2日には、プノンペン中心部の王宮近くで、兵士たちが銃を乱射し手投げ弾を爆破させる事件があった。首謀者として、プノンペンの治安を担当する第170師団の司令官、チャン・チャクレイが逮捕された。この「反乱」というには幼稚なでき事も、シエムリアップでの爆発事件同様、動機は不明だ。

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 いずれにせよ、この2つの事件は、ポル・ポト政権指導部に自らの権力基盤の脆弱さを再認識させる結果となっただろう。これに食糧増産計画の失敗と飢餓の発生が追い討ちをかけたのだ。ポル・ポトは党内部への猜疑心を増幅させていった。

 そして9月、『ポル・ポト伝』の著者で研究者のチャンドラーが「政治危機」と呼ぶ一連のでき事が起きる。

 まず、9月20日、ポル・ポトが首相を辞任し、ヌオン・チアが首相代行に就任した。辞任は「病気療養のため」とされた。しかし、ポル・ポトは病気などではなかった。この間の事情についてイエン・サリ(編集部注:民主カンプチア政権で副首相、外相を歴任したカンボジアの政治家。ポル・ポト内閣で重用されていた)は、我々の取材に対して次のように明かした。


「これは聞いた話だが、彼はよく圧力をかけられたらしい。圧力とは、首相のポストを他の人に譲り党書記の任務に専念するように、というものだった。

 首相のポストは次には私にまわってくるものと思っていたが、ポル・ポトはヌオン・チアに譲った。だが、2日後、ヌオン・チアは今のままの地位でかまわないと言って、その任務を断った」


 このイエン・サリの言葉は、ポル・ポトが実際には辞任などしていなかったことを示している。それでは、ポル・ポトは首相を辞任した「ふり」をして何をしていたのだろうか。それは、この直後から起きたでき事で説明がつくだろう。

 ポル・ポトが首相を辞任したその日、古参党員で北東部地方書記を務めていたネイ・サランが逮捕された。続いて、25日にはケオ・メアス、10月15日にケオ・モニ、そして、11月1日にはノン・スオンと、いずれも古参幹部が立て続けに逮捕され、全員が処刑された。こうした幹部の粛清を指揮していた人物は、ポル・ポト以外にありえない。

 粛清された幹部に共通しているのは、いずれも抗仏武装組織クメール・イサラクの主要メンバーとして、ポル・ポトよりも早く「革命組織」に参加していたという点だ。イエン・サリが言う「圧力」は、こうした古参幹部からかけられていたのだろう。イサラクの指導者の多くは、「独立」という大義名分のもと公然と活動し、国民から一定の支持を得ていた。ポル・ポトたちフランス留学組に比べればより現実的な考え方を持っていた彼らは、食糧政策の失敗と途方もなくずさんな「四か年計画」に対し反発を抱いていたに違いない。そして、ポル・ポトに首相辞任を迫った。ポル・ポトは、いったん辞任を受け入れるふりを見せて、表舞台から姿を消し、密かに粛清の計画を練り、実行したのだ。