「ウイスキーを売るのに疲れました」と笑っていた
笠谷幸生は、1943年に仁木町で生まれ、余市高校、明治大学を卒業後、ニッカウヰスキーに所属してジャンプ競技を続けた。ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝がジャンプ競技を愛し、自ら「竹鶴シャンツェ」を余市町内に造り、このジャンプ台から笠谷を始めとして長野五輪団体と個人ラージヒルで金メダルを獲得した船木和喜らを生んでいる。今回、小林陵侑が金メダルを獲得するまで、日本が獲得したジャンプ競技の金メダルは、笠谷、船木、団体(長野)の3個だけで1998年の長野大会以降、開催中の北京大会まで24年間、手が届いていない状態だった。
笠谷は、2003年に紫綬褒章、2018年に文化功労者となり、兄の笠谷昌生(故人)とともに日本のジャンプ界をけん引してきた。
1992年にニッカウヰスキー東京本社広報部部長になり、ジャンプ競技では国際審判員の資格も取ってワールドカップ、オリンピック、世界選手権などで審判を務めた。
1999年にニッカウヰスキー北海道支社副支社長就任を最後に退社する際に私は笠谷に話を聞いたことがある。彼が「ウイスキーを売るのに疲れました」と笑っていたことを思い出す。
広報部長や支社長といっても、金メダリストの笠谷は「歩く広告塔」でもあった。銀座や赤坂、六本木、札幌・ススキノなど一日にスナックやクラブ、バーなどを10軒以上回って自社製品を宣伝することもあったという。
「マッサン」ブーム以前のニッカは、サントリーの販売攻勢に右肩下がりの苦しい営業状況で笠谷が退社するころには全面的にアサヒビールの傘下に入り、ニッカ広報部もアサヒビール広報室に統合された。
「90メートル級で負けたということは、全部で負けたことと同じ」
退社後、笠谷はジャンプ競技の指導と普及に専念し、2001年全日本スキー連盟担当理事、ジャンプ部長兼ヘッドコーチに就任。2010年のカナダ・バンクーバー五輪では日本選手団副団長を務めている。
その後一時体調を崩し、入院生活を送ったこともあったため、全日本スキー連盟などの役員を退任。現在は唯一、札幌スキー連盟顧問という肩書を持っている。
テレビや新聞社からの取材の申し込みにも「ご本人は、あまりメディアにお出になりたくないそうです。何かご依頼があればお取次ぎはします」(同連盟事務担当)ということでジャンプ解説などではもっぱら今回の北京大会の日本選手団の総監督となった原田雅彦がマスコミに登場している。今回改めて笠谷に取材を申し込んだが、北京大会開幕までに返事は届いていない。
そんな笠谷を全国の新聞社で組織する「全国新聞ネット」が1月23日付けの記事「47ニュース」(共同通信配信)で取り上げた。金メダルを獲得した宮の森シャンツェの前に立つ笠谷は「70メートル級は取って付けたようなもの、付け足しだ。90メートル級がメイン」「90メートル級で負けたということは、全部で負けたことと同じ」と後悔の念を語ったという。
また、2月6日に小林陵侑が北京五輪で金メダルを獲得したことに関しては、スポーツ紙などに、以下のコメントを寄せた。
「ただただ、おめでとうだ。万歳、万歳。格好良かった。(自分の勝利から)ちょうど50年か。そりゃいいね。不思議だな。彼の実力だ。よくやった。特に1回目は一番いいジャンプをしたんじゃないか。追い風であそこまで飛ぶ技術を持っている。大したものだ。次は(日本勢初の個人種目2冠が懸かる)ラージヒルで勝ってもらいたい。同じような穏やかな風だったら、チャンスはあるよ」(サンケイスポーツweb版2月6日配信)
2014年2月に仁木町教育長室で触らせてもらった金メダルの重みと、少し汚れたようなリボンの色が忘れられない。あの金メダルをスキー連盟や札幌市に寄贈したのではなく、生まれ故郷の町に突然ポンと寄贈した本当の理由は何だったのか。冬季オリンピック日本初の金メダルは、笠谷にとって価値のないものだったのか。私は今年で79歳になる笠谷にそのことをどうしても聞きたいと思っている。