角界の不文律「大関不在はあり得ない」
御嶽海には運があり、運を味方にする勝負強さもあった。江戸時代から明治時代中期まで、大相撲の番付における最強の地位こそが「大関」。横綱はそもそも明記されておらず、明治23年の1890年に初めて番付に「横綱」と載るまでは最強の称号という扱いだった。そんな歴史的観点から横綱不在は致し方ないにしても、大関不在はあり得ないというのが角界の不文律だ。昭和以降で大関の空位は1981年秋場所しかなく、当時の東西正横綱である北の湖と千代の富士は番付表に「横綱大関」と書かれた。番付上では大関不在、もしくは1大関で西方がいない事態を回避する策が施されたほどで、最近では貴景勝の1大関で西方の大関不在だった20年春場所で西横綱鶴竜が「横綱大関」となって埋めた。ただこの場所後に朝乃山が新大関昇進を決め、臨時措置は1場所で解消された。
初場所ではその大関陣が著しく精彩を欠いた。貴景勝が4日目から休場し、正代は13日目に負け越し。ともにかど番の来場所で勝ち越せなければ陥落が決まる。そして仮に初場所後の昇進を見送られた“関脇御嶽海”までが不振に終われば、41年ぶりとなる大関ゼロの事態が現実となる。ならば既に優勝2回で三役経験豊富と実績十分の実力者だけに「いずれ上がるんだから、今でもいいでしょう」(審判部の親方)との見解も出てきた。
さらに盤石だった横綱照ノ富士は14日目に3敗目を喫し、古傷の膝も痛めた。そして「顔に出すことによって、自分にも気合が入る。引き締まる思いがしたので、いつも以上に厳しい顔になった」と本人が明かしたように、初日からの鋭い視線も精神面の成長とプラスに捉えられた。最終的には3場所で33勝目と3度目の優勝も達成。自力と他力ががっちりと連動し、番付を取り巻く周囲を動かしたと言える。
「人の心を動かした」大関昇進、11年年九州場所の稀勢の里
人の心を動かした大関昇進として思い出されるのが、11年九州場所の稀勢の里だ。19歳で新三役になった男は長く伸び悩み、25歳になっていた。関脇で10、12勝と積み重ね、一年納めの場所で11勝を挙げれば計33勝で文句なしの昇進だ。満を持しての大関とりで福岡へ乗り込んだが、初日の6日前に師匠の鳴戸親方(元横綱隆の里)が急逝した。ただでさえのし掛かる重圧はもちろん、育ての親と突然の別れという衝撃のまま勝負の土俵に立った。前半戦を7勝1敗で終えながら、内容は本調子と程遠い。9日目以降は黒星と白星が交互と苦しみ、13日目には大関把瑠都に屈して4敗目。いわゆる「目安」の到達へ後がなくなった。
この取組後の放駒理事長(元大関魁傑)の姿が忘れられない。昇進を案じる報道陣に対し「皆さんは33勝とこだわるけど、こちらとしてはあくまで内容重視だからね」と必死の形相で反論した。現役時代は無休を貫き、けがや病気の言い訳を一切しないことから「クリーン魁傑」と呼ばれた理事長は、黙々と愚直に闘う稀勢の里の真摯さを以前から買っていた。残り2日間の勝敗などを仮定した質問をかわしながら「私としては上がってほしい」と発言。そして次の瞬間、常に冷静な放駒理事長が語気を強めて言い切った。
「一生懸命に頑張っているじゃないか」