2022年1月、ジャーナリストの伊藤詩織氏が元TBS記者の山口敬之氏から性暴力を受けたとして損害賠償を求めた裁判の控訴審で、東京高裁は山口氏に対し332万円の賠償命令を下した。一方で、事件後に伊藤氏が公表した内容が名誉毀損などに当たるとして、伊藤氏に55万円の支払いを命じた(現在双方上告中)。

 一審に引き続き、高裁でも「同意のない性行為」だったと認定されたが、ここへ至るまでの道は決して容易ではなかった。

 性暴力被害者を取り巻く日本の現状に迫った伊藤詩織氏の著書『BlackBox』より一部を抜粋。山口氏の逮捕予定の日、突然逮捕に「待ったがかかった」と伝えられた伊藤氏と、捜査員A氏とのやり取りを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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 山口氏の帰国に合わせ、成田空港で逮捕する、という連絡が入ったのは、6月4日、ドイツに滞在中のことだった。「逮捕する」という電話の言葉は、おかしな夢の中で聞いているような気がして、まったく現実味を感じることができなかった。

「8日の月曜日にアメリカから帰国します。入国してきたところを空港で逮捕する事になりました」

 A氏は、落ち着きを見せながらも、やや興奮気味な声で話した。逮捕後の取り調べに備えて、私も至急帰国するように、という連絡だった。

 私はこの知らせを聞いて、喜ぶべきだったのだろう。

 しかし、喜びなんていう感情は一切なかった。電話を切った途端、体のすべての感覚が抜け落ちるようだった。これから何が待ち受けているであろう。相手から、彼の周囲から予想される攻撃を想像すると、どっと疲れを感じた。

 少しずつ自分の生活を取り戻しつつあったところで、またこの事件に引き戻された。

 しかし、気持ちを立て直さなければならない。事実が明らかになる時が来たのだ。私は仕事を調整し、帰国できるチケットを探し始めた。A氏はこれまで、「疑わしきは罰せず」と繰り返し私に言った。「疑わしいだけで証拠が無ければ、罪には問えないんですよ」と。

 それが、裁判所から逮捕状請求への許可が出るところまで、証拠や証言が集まったのだから、大変心強いのは事実だった。