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 ようやく地味だが手強い西馬込ダンジョンを抜け、地上に出るとこれはびっくり。そこには第二京浜がバーンと通っていた。第二京浜は国道1号でもあるから歴史と伝統の大街道なんじゃないかと思いがちだが、こちらは戦前から戦中戦後にかけての時期に整備された比較的新しい道路だ。交通量の増える京浜間の新たな大動脈として計画・建設されたらしい。

 そんなわけだから、とうぜんひっきりなしにクルマが走る。トラックはもちろん、営業車であろうクルマも多い。薄暗い地下ダンジョンから上がってきたばかりというのもあって、歩道橋の上から見下ろす片側三車線の大道路はまさに壮観だ。

 国道沿いといっても地方都市のそれとは違うので、めちゃくちゃ広い駐車場を持つ吉野家やびっくりドンキーがあるわけでもなく、せいぜいコンビニやスーパーなどの小さな店舗があって、合間にはマンション、雑居ビル。浅草線の西馬込駅は、そうした国道沿いの雑居ビルのひとつに入っている。だから、第二京浜をクルマで走っていてもなかなか見つけられない、控えめな存在でもあるのだ。

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 西馬込駅が開業したのは1968年11月15日。浅草線自体はそれより早く1960年に押上~浅草橋間で開業していて、少しずつ延伸を重ねて8年後に全通したということになる。

 地図を見ると、もうちょっと西馬込から南に伸ばせば東急池上線か多摩川線のどこかの駅と接続できそうにも見えるが、浅草線が東急の路線に囲まれつつもどの駅からも離れた地域への連絡という役割を担っているわけで、わざわざ延伸する必要もないのだろう。

脇道に入ってみると…

 戦争の終わった後に第二京浜が完成して、その後に浅草線がやってきて西馬込駅が開業。つまり、きっと西馬込駅の周辺は第二京浜と浅草線によって発展した町なのだ。ならば、第二京浜からちょっと脇道に入って、少し散策してみることにしよう。

 

 すると、やたらと坂道だらけであった。そもそも第二京浜もその一部が馬込坂などと呼ばれているようで、とにかく西馬込駅周辺は坂だらけ。走りたくなる……というよりはもう歩きたくないくらいの坂だらけ。さらに、道も碁盤の目とはほど遠く入り組んでいて、時折スマホの地図を確認しないと迷ってしまう。

 もともと馬込は武蔵野台地の東の端で、馬込九十九谷と呼ばれるほど入り組んだ地形になっている。古く縄文時代には台地の際まで海岸線が来ていた(つまり坂の下は海だった)から、台地上にはその頃の遺跡がたくさんあるという。いわゆる貝塚、教科書でもおなじみ大森貝塚もそうした類いのひとつで、古代人の暮らしがほんのりしのばれる町でもある。