そんなでこぼこ入り組んだ町には、立派な門構えの大邸宅や古くも品のあるマンション、昭和の面影が残ったアパートなどが建ち並ぶ。その隙間に騒がしくない程度に商店の類いもあって、子ども連れのお母さん、学校帰りの子どもたちなどが歩いてるような文字通りの閑静な住宅街だ。
今は馬込も大東京の一部だが、山手線を東京の中心を囲む結界とするならば、そこからは結構離れた“郊外”である。それは西馬込駅ができたのが戦後だいぶ経ってからということからもわかる。
だから、明治から大正の頃までは、馬込周辺は田畑の広がる田園地帯だった。そこに都市化の波が押し寄せて、1923年の関東大震災では都心ほど被害が大きくなかったこともあって一気に住宅地として生まれ変わってゆく。
いまの東急線が開通して、馬込周辺を鉄道が取り囲むようになったのもこの時代。そして、震災後にはいわゆる文豪や芸術家たちがこぞってこの町に暮らすようになり、“馬込文士村”の異名を取った。
知られざる阪神タイガースとのつながり
西馬込駅からほど近い一角に大田区の郷土博物館があったので訪れてみると、馬込文士村に暮らした文人たちが紹介されている。萩原朔太郎、川端康成、村岡花子、三好達治、山本周五郎……。泣く子も黙る有名人ばかりだ。
まだ第二京浜も通っていない時代で、住宅の合間には畑もたくさん残っていただろう。そうした町は、こうした文士たちが暮らすのにうってつけだったのだ。そして、そんな名だたる文士たちの紹介の中に、佐藤惣之助という名前を見つけた。
どこかで聞いたことがあるな……と思ったら、そう。我らが阪神タイガースの『六甲おろし』を作詞した人ではないか。まあ、だからどうということもないのだが、終着駅・西馬込と阪神タイガースがこんなところでつながってちょっとうれしい。
ともあれ、そうした文豪たちが暮らした町の面影は、東京都心にとても近いのに静謐な空間の中に息づいている。
坂の町の中を第二京浜がぶち抜き、その地下を地下鉄浅草線がゆく。終点、西馬込の少し南の第二京浜沿いには大きな車両基地もある。その車両基地を長い跨線橋で渡れば池上本門寺。西馬込駅のあたりに来れば、ほんとうの東京郊外の純粋な姿を見いだすことができるのである。
写真=鼠入昌史
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