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 東京に持ち帰ったエイは平気で生きていた。明仁の話に弟の義宮正仁(常陸宮)も興味を持ち、再び「実験」にかかった。明仁はもう度胸がついていたのだろう、すぐに手をだした。が、感電し、「打ち振るように」手をはなした。「持ち方が悪い」も、「強く持つ」も、まして「お人柄」も関係なかった。正仁も驚いた。明仁は「触つてごらん、義宮さんも」と言ったが、正仁は「どこに触るのですか?」「強くですか?」と、口は出るが、手はでなかった。明仁が「ちよつと驚いたが、大したことはなかつたよ」と言うと、正仁はやっと手を出したが、やはり感電した。「しびれエイ」は再び蓄電していたのだ。

 ちなみに、弟の正仁は2歳下で、1958年に学習院大学理学部化学科を卒業し、その後、東大大学院研究科研究生となり動物学を専攻している。兄弟ともに幼いころから動物好きだったのだ。

海水魚を飼う

 三崎臨海実験所からは、「しびれエイ」のほかにもカワハギの子をもらった。2センチぐらいの平たい、ちょっと円みのある、口のとがった、ちょろちょろした小魚で、5~6尾いた。明仁は昭和天皇から聞いた海水魚の飼い方を実験するために、持ち帰ったのだ。「海の魚を、ガラスの水槽でどれくらい飼育出来るだろうかね」という側近に話した言葉が、明仁の興味の焦点であり、課題だった。

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 明仁は毎朝、「いとみみず」や「ぼうふら」を与え、数日置きにゴム管を入れて、底の澱んだ海水を排出し、葉山から持ってきた海水を補給した。かわはぎは元気に育ったが、用意した海水が減っていった。明仁は「おもうさま[父である昭和天皇のこと]、海水を持って来てください」と天皇が葉山から帰る際に頼んだ。海水は暗所に置いて、すっかり腐らせて少しずつ大事に使った。というのは、新鮮な海水はくんでおけばたちまち澱みはじめる。目に見えない海中微生物が腐敗するからだ。海水魚をそのなかで飼うと、その影響を受けて死んでしまう。海藻も枯れて腐ってしまう。そのため一度海水中の生物を腐らせてから使用すれば、かえって浄化された海水になっているから、魚はいつまでも生きられるという。

 あれこれ苦心していたが、4月6日から紀州旅行に出かけることになり、かわはぎの世話が気がかりになった。侍従にまかせるのには不安があり、思案の末、「そうだ、おもうさまにあずけよう」とひらめいた。側近も「そう、それがよろしゆうございましよう」と賛成した。天皇もよろこんで引き受け、水槽は小金井から皇居に運ばれ、天皇は毎朝餌をやり、海水を補給して世話した。明仁が帰ると、カワハギは再び小金井に返された。しかし、その後1ヵ月たち、1ヵ月半たつうちに、1尾、2尾と弱っていった。生物学者として第一線の水準にある昭和天皇と、まだ初心者の明仁との間には、設備も飼育技術も雲泥の差があったろう。それでも生物学者の父親から直接手ほどきをうけながら、成長しているのちの魚類学者明仁の姿を垣間見ることのできるエピソードだ。

 ついでながら、のちに動物学を専攻する常陸宮正仁は、金魚の赤色腫などの研究をする。また、平成の天皇の次男である秋篠宮文仁は、東南アジアでの淡水魚の系統分類学やナマズ類の研究に進む。昭和天皇の生物学研究の影響は、長男のみならず次男や孫にも伝わっていた。