ライフワークとして長年「ハゼ」を研究されている上皇陛下。現在までに発見した新種はなんと10種にものぼり、長年の研究成果は生物界からも高く評価されている。
忙しい公務を抱えながら学問に注力する情熱はどこから来るのか。ここでは歴史学者の小田部雄次氏による『皇室と学問 昭和天皇の粘菌学から秋篠宮の鳥学まで』(星海社新書)の一部を抜粋。幼き日の上皇陛下が魚類に興味を示した際のエピソード、そして研究テーマにハゼを選んだ理由について紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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魚好きの明仁
宮廷記者として宮内庁に出入りしていた田中徳の『皇太子さま』には、魚好きの幼い明仁の姿が描かれている。小さかったころ、金魚などの玩具が好きで、金魚鉢にはうぐいも飼っていた。
明仁がまだ皇居にいるころ、吹上御苑の花蔭亭の池で飼っていた「変り鯉」も大好きだったという。新潟産の緋、白、黒のまだらのある美しい鯉で、両親である昭和天皇と香淳皇后はパンの切れ端などを与えて、皇太子の明仁をよろこばせたりした。あるとき、明仁は、その鯉が欲しくなって、〈たも網〉を持ち出して鯉をすくいはじめた。昭和天皇はしばしば明仁に、「捕つてしらべるのならばいいが、殺してしまうのだつたら止めた方がいいね」と注意していたが、このときは、明仁が小さすぎて、鯉捕りは成功しなかったろうから、昭和天皇も心配しなくてすんだろうと、田中は書いている。
明仁が中等科2年を終えた春休みの3月24日、父の昭和天皇とともに葉山から三崎臨海実験所(現在の東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所)を訪問した。神奈川県三浦半島の西南端に位置し、半島の東側は東京湾、西側は相模湾に面しており、世界的にも稀な豊かな生物相を有している。創設は1886年(明治19)で、現在の三崎町に日本初の、世界でも歴史の古い臨海実験所の1つだった。97年に、より生物相の豊かな油壺に移転し、現在にいたっている。
この由緒ある実験所を訪問した明仁は、魚の生態や、夜光虫など海中生物を、昭和天皇の説明を聞きながら見学した。ガラス張りのいけすには、大きなウミガメやタイ、サバ、タコ、イカなどが泳ぎ、明仁は目を見張って見学した。暗室に入ると、天皇はガラス鉢の海水をかきまわした。強くかきまわすにしたがって、水全体が光の液体のように美しく渦まき、明仁を喜ばせた。天皇が「夜光虫は刺戟すると発光します。電流を通じてみましようか」と、教えるように説明しながら、電流を通じた銅線を入れると、電線に接した夜光虫が蛍光して、電線が発光しているように見えた。明仁も実験してみると、「面白いほど光つた」。
しびれエイの「実験」
昭和天皇は、この実験所が漁獲した「しびれエイ」を見つけると、「東宮さん、触つてごらんなさい」と勧めた。実験所の職員が、いましがた強く打たれて投げ出すように手を引っ込めたのを見たばかりだった。手を出ししぶっている明仁に、天皇は「ええ、触つてごらんなさい、気味が悪いの?」と笑っていた。側近も「大丈夫ですよ、大したことはありませんよ」と面白そうに勧めた。明仁はくすぐったい笑い方でいたが、笑顔のどこかに真剣さがあった。明仁はエイをそっと触って、そっと持ち上げた。何の異状もなく、エイもおとなしかった。「もっと、強く持つんですよ」「いやそこを持つのではない、胸のあたりを持つのですよ」、「発電機は胸にあるのですから、もっと上の方ですよ」と、明仁の顔の緊張がほころびたためか、側近もはやしたてた。明仁も平気になり、笑っていろいろ触ったが、何も起こらなかった。「いや、これはやはりお人柄ですかね」と、側近は爆笑して、天皇も笑った。「さつきの一撃で、全部の蓄電を放出してしまったのかもしれないね」との天皇の言葉で、明仁もあきらめた。かなり決心したが、「実験」は不成功に終わった。