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加古さんのインタビューを傍で聞いていらしたのは、長女の鈴木万里さん。万里さんによると、加古さんは「何でもできて、勉強も訊けば教えてくれるお父さん」だったという。最終回は、お父さまとしての加古さんについて、万里さんに伺いました。
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――万里さんは、お子さんのエピソードとして本書にも登場されていますね。「紙芝居だけは時々自宅でやったけれども、『育メン』とは程遠く、娘にすればなんと理不尽な父親でしょう」と加古さんは本書で語られていますが、実際はいかがだったのでしょう?
万里 理不尽という感じは全然なかったですね。お母さんは家で家事やって、お父さんは外で働いているもので、土日も一生懸命なにか描いたりしていますから、そういうもんだと思っていたんですよ。ところが、小学校2、3年生くらいになると、よそのおうちのこともちょっと分かってくるじゃないですか。お父さんはテレビの前でごろ寝してる、とか、ちょっとハイカラな家だとドライブに連れていってもらった、とか。中学生のころ、もしかしたら普通のお父さんと違うのかもしれないと気づき出して。遅かったですねぇ(笑)。
――お父さまへの反抗期は特になかったんですか?
万里 全然なかったです。ほんとに小さい頃は一緒に遊んでもらっていましたから。私が小さい頃は『だむのおじさんたち』(1959年、加古さん33歳。デビュー作)が出て、『かわ』(1962年)を描いている頃。私は5歳くらいで、その頃父はそんなに忙しくないわけですよ、まだ売れていませんでしたから。父の足の上に乗っけてもらって一緒に歩いたり、うちで自作の紙芝居も見せてもらっているし。ときどき近所の友達を交えて一緒に幻灯を見せてもらったりもしていました。
――楽しそうですね。
万里 そう、もう最高ですよ。だってテレビは白黒の時代ですもん。私自身は覚えてないんですけれども、自分と同じくらいの大きさの人形を持っている私の写真があるんです。そのお人形は父の手作りでした。4歳下の妹は運動が得意なんですけれども、私は苦手だからということで、父は器用だから自宅の庭に鉄棒を作ってくれました。だから、色々してもらっているので、全然構ってもらってないというわけじゃないんですよ。
――加古さんは本書で随分とご謙遜されていますね。
万里 そうなんですよね。ですから、熱心な育メンでなく、着替えさせたり、園に送っていってくれたりとかはしなかったかもしれないけれども、あの当時のお父さんの平均的な像から考えれば、全然普通(笑)。だって、ほとんどのお母さんが専業主婦で、お父さんは厨房に入らずの時代ですから。寂しいと思ったことも全然なかったですね。川崎に住んでいた時代は、会社もセツルも自宅から歩いて行ける距離で、定時にはもう帰ってきちゃうんですよ、自分の仕事がしたいから。そうすると6時前には帰宅するから、ごはんを一緒に食べられる。お父さんと夕食一緒に食べられる子どもってそんなにいないでしょ。