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今の仕事にたどり着くまでは色んな紆余曲折が

――現在の福祉・介護ビジネスはその頃から考えていたんですか。

清水 いや、今の仕事にたどり着くまでは色んな紆余曲折がありまして…。

 2010年に引退したものの、やはり何をしたらいいのか分かりませんでした。ただ、3歳から小児喘息を患い、喘息と向き合いながら競技を続けてきたので、喘息に関する講演会の依頼が多くあり、その一環で僕も喘息と上手く付き合う啓蒙活動を行っていました。そのうち、医療関係者の方々にも多く会う機会に恵まれ、ある医者の方から「本気で自分のキャリアを活かしたいなら、基礎から医療経営学を学んでみては」とアドバイスされ、11年に母校の日大大学院のグローバル・ビジネス研究科に入学したんです。

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 大学院で医療経営について学ぶ傍ら、フィールドワークで医療施設に研修に行ったのですが、ある施設で怪我や病気、身体機能が衰えた高齢者が、リハビリによって回復する過程を見て、これこそがアスリートが介入できる分野だと直感的に思いましたね。

――すぐに行動に移せたんですか?

清水 いや、そこからまた人生に一波乱が起きて(笑)。10年に結婚したんですけど、僕の不用意な行動が原因で11年末に離婚。そして12年には新党大地の公認候補として衆院選に立候補。そして落選。

 いやあ、今考えても11年、12年はどん底でしたね。大学院で勉強はしていたものの、引退後の方向性がしっかり見えたわけではなかったので、気持ちがフラフラしていた時期でもあったんです。

2006年、トリノ五輪での清水選手 ©文藝春秋

選挙活動では自分の甘さや無知さ加減が嫌になった

――新党大地から衆院選に出馬したのは正直驚きました。

清水 周りを固められた感じでしたね。鈴木宗男さんから打診されたとき、まだ大学院生だし「政治のことは分からない」と何度も断ったんですけど、「素人でも大丈夫だから」って(笑)。そのうち、宗男さんの根回しで全国の有力者たちからも「やって欲しい」とグイグイ押され、気が付いたら後戻りできない状態になっていました。しかも、帯広出身の僕が、何の縁もゆかりもない北海道1区(札幌)で立候補させられるという…。

 選挙運動は実質2週間ぐらいしかなかった。しかも蓋を開けてみれば党から派遣されたスタッフはまるでやる気がなかった。当然です。僕は比例代表区の票集め要員で担ぎ上げられたので個人候補を応援する必要がない。事実、のちに宗男さんの娘さんが比例区で繰り上げ当選しましたからね。

 選挙運動が始まってすぐ、そういうことだったのかと気がつき、自分の甘さや無知さ加減が嫌になりましたけど、目標を持ったら全力を尽くすというアスリート魂に火が付き、一人で無茶苦茶頑張りましたね。でも終盤には、やる気のなかったスタッフも応援してくれるようになりましたけど。

 心のどこかにあった、金メダリストだし、もしかしたら大勢の人が票を投じてくれるかもしれないなんて甘い考えは、選挙で木っ端みじんに吹き飛ばされました。