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「克則が『野村の息子』という看板を背負って生きていると思うと、辛かった」 野村克則が明かす“親の七光り”と叩かれたとき、克也と沙知代から言われたこと

「克則が『野村の息子』という看板を背負って生きていると思うと、辛かった」 野村克則が明かす“親の七光り”と叩かれたとき、克也と沙知代から言われたこと

野村克則さんインタビュー#2

2022/03/10

source : ノンフィクション出版

genre : エンタメ, 働き方, スポーツ

新庄流の感謝の表現

 新庄新監督も、野村との絆は強い。昨年末の野村をしのぶ会には、野村が愛用したジャケットに身を包み、颯爽と現れた。

 15年ぶりとなるプロ野球選手復帰を目指し、2020年12月、新庄は12球団合同トライアウトに参加した。無謀な挑戦に見えたが、実はその1年以上前からトレーニングを積んでいた。

 野村が引退した年齢を超えて現役復帰に挑戦すること。それが新庄流の感謝の表れだった。トライアウト後、取材陣に語った。

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「野村監督が『歳と時代には勝てん』って(言っていたけど)、まだ(結果は)はっきり決まってないけど、歳には勝ったかな。『歳には勝てましたよ!』ってことを(野村に)報告したい」

 

 その2か月後、野村家に新庄から連絡が入った。

「お線香をあげたいので、伺ってもいいですか?」

 克則の妻、有紀子が話す。

「新庄さんはおひとりでいらっしゃいました。明るくて気さくな方でした。お線香をあげるとき、『ちょっと一人にしてもらってもいいですか?』と頼まれて。驚きましたけど席を外しました。お義父さんと二人だけで話がしたかったのでしょうね」

 さらに新庄は、野村家に“お願い”をしていた。

「『監督の愛用していた服を、何かいただけませんか?』と。そして、あのヴェルサーチのグレーのジャケットと黒いタートルセーター、そしてネクタイを選ばれたんです。『監督と僕じゃサイズが全然違うから!』と笑ってましたね」

 

 有紀子が続ける。

「『野村監督にはとても可愛がってもらいました。僕のことをマスコミに色々話してくれたり、いい形で目立たせてくれました。そのおかげで、新庄剛志という名前が全国区になりました。感謝しています』とおっしゃってました」

 譲り受けたジャケットを仕立て直した新庄だったが、野村が付けた中華料理の食べこぼしのシミはクリーニングに出さず、そのまま残している。

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