「ライバルが多かったこともあって、デビュー曲の『私の16歳』は最高順位22位とそこまで爆発的には売れなかったんです。でも1年後に髪をショートカットにしてイメチェンをはかったことで一気にトップアイドルへの道を歩みだした。1983年11月の『艶姿ナミダ娘』で売り上げ3位、そして1984年3月の『渚のはいから人魚』でとうとう1位を獲得。デビュー曲から丸2年後のことでした」(芸能デスク)
「スタ誕」に出ていた小泉がその可能性を見出され、所属したのはバーニングプロダクションだった。いつの頃からか芸能界のドンと呼ばれる、周防郁雄氏がトップを務める有力芸能事務所だ。
「小泉さんがデビューする7年前に、郷ひろみがジャニーズから移籍。ほかに細川たかしや高田みづえなどを擁していました。周防社長は、小泉さんのコミュニケーション能力と自己プロデュース能力を高く買って、売り出しにも非常に力がこもっていました。『今度ウチからデビューする小泉今日子です』と、自ら15、16歳の彼女を連れてテレビ局などをまわっていましたからね。その後を眺めても、周防さん自身があんなに地道な営業をしていたのは最後なんじゃないでしょうか」(同前)
その「自己プロデュース」が世間をびっくりさせたこともあった。「ショートカット事件」だ。
ショートカットが変えたキョンキョンの“アイドル道”
17歳になりたての彼女は、突如ヘアスタイルを変えた。
「事務所に『美容院に行ってきます』とは伝えたものの、まさかそこまで短くしてくるとは誰も思っていなかった。当時のアイドルといえば、いわゆる“聖子ちゃんカット”のフワフワガーリーヘアが王道。でも、突如、『みんなおんなじで気持ち悪い』と思ったそうで(笑)。周防社長やスタッフは愕然としていたそうですが、結果その大胆な行動が功を奏して、次の『まっ赤な女の子』(1983年5月)からさらに注目を浴び、売れ行きが伸びたんです」(同前)
その後、女性アイドルとして前代未聞の「刈上げヘア」にも挑戦し、自らのことを「コイズミ」と称すようになったことでも一世を風靡した。ファッションリーダーでありトレンドメーカーというわけだ。
そして小泉は“生き様”でも最先端を走った。