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〈西村京太郎 死去〉軍人だった少年が十津川警部を生むまで 「裏切られたり、騙されたりしたことも、何度もあります」

2022/03/06

source : 週刊文春 2016年06月02日号

genre : エンタメ, 読書

「もうすぐ自分は死ぬと思っていた」戦争の記憶

 戦時中、国の命令で軍需工場で働くようになった父は、家に戻ってきた。昭和18年、小学校を卒業した西村さんは、大井町にあった旧制府立電機工業学校に入学した。

 これからは科学の時代だと言われていましたし、将来は機械を発明したいと思って入ってみたら、校長が熱烈なヒトラー崇拝者だったんですよ。おかげでシューベルトの『菩提樹』をドイツ語で歌わされたりしました。機械の設計を勉強しながら、本も相変わらず読んでいました。そのころ好きだったのは『パノラマ島奇談』など、江戸川乱歩の大人向けの小説です。

 1年ほど経つと学徒動員が始まって中学校の授業はなくなってしまったから、僕は昭和20年に東京陸軍幼年学校を受験したんです。どうせ戦争に行くなら、早く軍隊に入ったほうがいいと思って。合格後は家を出て、八王子の生徒舎(寄宿舎)に入りました。

 高い塀で囲まれた10万坪くらいの敷地に、校舎、生徒舎、体育館や食堂、医務室などが全部あって。ひとつの国のようなところで、世間と隔絶した生活を送っていました。塀の外では人々が食糧不足に苦しんでいたけれども、内側では終戦までお米のご飯が食べられたんです。

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西村京太郎さん ©️文藝春秋

 生徒舎は大きな長方形の部屋で、木のベッドが20台くらい並んでいました。新入生の中に1人「模範生徒」と呼ばれる上級生が入って、いろいろと生活指導をしてくれるんです。朝は6時に起きないと怒られるから、制服を着たまま寝たりしていました。

 5月の大空襲で被災して、家族は調布の仙川に移ったんです。父が幼年学校に知らせに来てくれました。家が焼けたと聞いても、僕は何も感じませんでした。軍隊に入った時点で、もうすぐ自分は死ぬと思っていたから。

 いよいよ日本の敗色が濃厚になってきた8月2日の夜、八王子がB-29の爆撃にあう。陸軍幼年学校の建物は全焼した。

 僕は隣のベッドで熟睡していた友達を起こして一緒に逃げたんです。命の恩人だと感謝されました。生徒舎が焼けたあとは、万が一に備えて裏山に建てられた小屋に移りました。床に布団を敷いて、20人くらいで雑魚寝して。焼け残った倉庫に缶詰やお米なんかがあったので、生徒が夜な夜な番をしましたね。民間人が盗みに来るんじゃないかということで、日本刀を持たされました。軍隊というものは、民間人を信用していない。みんな困っているんだから、分けてあげればいいのにと思いました。

 8月15日に終戦を迎えて、2週間くらい経ってから仙川の家に帰りました。建物は前と同じような長屋で、間取りもだいたい同じ。軍需工場が閉鎖されて自由になった父は、また姿を消してしまいました。幼い弟妹がいたから、長男の僕が家計を支えなければならない。恵比寿の進駐軍でしばらく働きました。昭和21年に電機工業学校の3年に復学しましたが、ナチス崇拝者の校長は追放され、先生たちも何を教えていいかわからない。野球ばかりしていた記憶があります。