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〈西村京太郎 死去〉軍人だった少年が十津川警部を生むまで 「裏切られたり、騙されたりしたことも、何度もあります」

2022/03/06

source : 週刊文春 2016年06月02日号

genre : エンタメ, 読書

note

作家・西村京太郎の「同棲生活」

 作家として本格的にスタートを切ったのは、昭和38年に「歪んだ朝」でオール讀物推理小説新人賞に入選してから。

 新人賞に入選したとき、新聞に僕の写真と「32歳独身」というプロフィールが載ったんです。そうしたら見知らぬ女の人から電話がかかってきて。「私はファッション関係の仕事がしたくて東京に出てきましたが、部屋代が高いので一緒に住みませんか?」と言われました(笑)。当時は個人情報も記事に書いてあったんです。

 小説で食べていけるようになったのは「歪んだ朝」の次に書かせてもらった『4つの終止符』が、田村正和さん主演で映画化されてからかな。昭和40年には『天使の傷痕』で江戸川乱歩賞を受賞しました。同じころに父が亡くなって。相変わらず女の人の家にいたから、僕が遺体を引き取りに行ったんです。

 37歳のとき、ずっと住んでいた仙川の借家を60万円で買い取りました。賞金500万円の懸賞小説に応募したら1等に入選したんです。平屋だったのを2階建てに改築して、母にあげました。僕の部屋は作らず、マンションを借りたんです。長男としてずっと家族の面倒を見ていたから、1人になりたかったの。最寄り駅は京王線の代田橋で、1Kの小さな部屋でした。代田橋には1年くらい住んで、次は渋谷区の幡ヶ谷にある、もう少し広めのマンションに転居しました。

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 初めて家を購入したのは昭和45年。渋谷区本町にあるマンションだった。間取りは2DKで、価格は1200万円。十津川警部が初登場する『赤い帆船(クルーザー)(当時は十津川警部補)』もこの部屋で書かれた。

 十津川は大学のヨット部出身という設定でした。僕は海が好きだったから、伊豆七島によく遊びに行っていたんです。目的はありません。ただ海で泳いだり、温泉に入ったりして、ぼんやりと過ごしていました。鈍行列車で旅をするようになったのもこの時期かな。1人で列車に乗って、周りの人を観察するのが楽しかったんです。

西村京太郎さん ©️文藝春秋

 1年に1冊は本を出していたけれども、全然売れなくて暇だったんですよ。はじめは初版3万部だったのがどんどん減っていって、編集者も心配していたんでしょう。あるとき、次に書きたい本の内容を事前に知らせてほしいと言われて。それまで書きたいものを自由に書いていたのに、初めて読者を意識したんです。僕は昭和7年の浅草を舞台にした話と、子供たちに大人気だった寝台特急ブルートレインの話を考えました。編集者のOKが出たのはブルートレインのほうでした。

 昭和53年に刊行した鉄道トラベルミステリー第1作『寝台特急(ブルートレイン)殺人事件』は大ヒット。ドラマ化もされて、西村さんは一躍ベストセラー作家になった。

 初めて重版というものが存在することを知りました(笑)。出版社の人も喜んでくれて嬉しかったです。

 ところが、少し有名になってくると、人間関係のトラブルも増えて。環境を変えたくなったんですね。昭和55年に、京都に転居しました。最初は中京区の六角堂のそばにあるマンションを借りて2年くらい住んだんです。次は伏見区の墨染町にある新築マンションを購入しました。そこには四年いて、東山区の1軒家を買ったんです。

 もともとは鯉こくの料亭でした。300平米くらいあったかな。最初の持ち主は金閣寺にならって作ったそうで、古いけど建物はよかったんですよ。ただ、大きな池に面していて、湿気がすごいから住みにくかったです。大きい家に1人暮らしで寂しいと言っていたら、同じミステリー作家の山村美紗さんが隣に引っ越してきてくれました。

 京都に行ったときは500万円だった収入が、1000万円になって、5000万円になって、1億円になって、7億円になりました。京都にはいろんなお店がありますが、僕は吉兆とか、たん熊みたいな料亭しか知らないんですよ。あとはお茶屋さんだけ。舞妓さんを身請けしないかという話もありました。あまりにも条件が厳しくて面倒なので断念しましたけど(笑)。

 お金があると、いろんな人が寄ってきて。裏切られたり、騙されたりしたことも、何度もあります。