「作家になりたい」
昭和23年、都立電機工業学校を卒業した西村さんは、新聞の求人広告で見つけた臨時人事委員会(現在の人事院)の採用試験を受けて合格。役所勤めをすることになった。
臨時人事委員会は、日本の役所にアメリカの人事制度を導入するために作られた組織でした。最大のモットーは、イコール・ペイ・フォー・イコール・ワーク。同一労働同一賃金です。役所で働く人は「公務員」と呼ばれるようになりました。パブリック・サーバントという言葉をそのまま訳したわけです。
GHQから派遣された先生の講演を、外務省の人が翻訳してくれるまで、我々はすることがありません。待機中はみんな部活動をしていたんです。社交ダンス部や演劇部など、いろんなサークルがありました。僕は文芸部で『パピルス』という同人誌を作るお手伝いをしていたんです。ガリ版を切るのが楽しかった。当時流行っていた太宰治の本はずいぶん読みました。
翻訳が終わると、仕事が始まります。僕はいろんな役職の人の業務内容を調べていました。例えば外務研究所の所長さんに会って「あなたの仕事の内容を教えて下さい」と訊くわけです。18歳の子供が、50歳くらいの人に。笑っちゃいますよね。
結局、日本の役所は東大出が一番偉いんです。いくらアメリカの制度を取り入れても、学歴による差があって、同一労働同一賃金にはならない。僕は高卒でしたから、先が見えてしまいます。
最初は面白かった仕事も、だんだんつまらなくなってきました。辞めようと決心したのは、29歳のとき、課長に見合いを勧められたのがきっかけです。結婚したらもう逃げられない。「作家になりたい」と言って退職したんです。ちょうどそのころ松本清張さんの『点と線』がベストセラーになっていました。読んでみて、これなら書けると思ったんです。大きな間違いだったのですが(笑)。
母には辞めたことを言わず、退職金を取り崩して給料として渡していた。午前中は上野の図書館で執筆し、午後は浅草の映画館へ行く生活を約1年間続けたが、新人賞に応募してもなかなか結果が出ない。やがて貯金が底をついたため、上板橋のパン屋で住み込みの運転手として働いた。
パン屋の近くにある一軒家で、10人くらいの従業員が寝泊まりしていました。大広間に布団を敷いて。毎朝4時に起きて、パンを入れた箱をトラックに積み込んで、小売店に配るんです。仕事が終わるのは9時ごろだったから、疲れきって帰ったら寝るだけ。小説なんて書く時間はありません。ある程度の金額が貯まったら母に渡し、仕事を辞めて小説を書く。お金がなくなったらまた職を探すということを繰り返しました。
競馬場の警備員とか、生命保険の勧誘員とか、いろんな仕事を経験しました。一番長く勤めたのは探偵社です。大企業に就職する人の身上調査なんかが主な仕事でした。ミステリーを書くときの役には立っていませんね。日本の探偵はライセンスもないし、警察に弱いから、あまり面白くないんです。