悠仁親王が筑波大学附属高校に進学することが発表された。戦後の皇族が学習院高等科以外の高校へ進学するのは初めてである。また、筑波大学附属高校は男女共学の国立の学校で、全国有数の進学校でもある。お茶の水女子大学附属中学校からの提携校進学制度を利用しての合格ということも含めて、大きな注目を浴びた。では、皇族の進学はこれまでどのような形だったのだろうか。
裕仁親王(昭和天皇)は学習院初等科を卒業後、東宮御学問所において「ご学友」と特別な教育を受けた。後の統治権の総攬者として、まさに「帝王教育」が施されたのである。
しかし、明仁皇太子は日本国憲法によって天皇が象徴となったことで、その教育方針は変化した。もちろん、元慶應義塾塾長の小泉信三が東宮御教育常時参与となり、家庭教師として将来の天皇のあり方を教えていくものの、皇太子は学習院の中等科・高等科へと進学し、一般の学生と一緒に学ぶことが重視された。
そして1952年4月、明仁皇太子は学習院大学政経学部政治学科へ進学する。皇太子が大学へ進学するのはもちろんこの時が初めてであるが、それも象徴天皇制となり、国民とできるだけ同じ立場で、同じ視点を有することが重要視された結果だと思われる。大学では、「正課の授業では特別な席は設けずに一般学生とおなじように勉強される。また同大学は男女共学なので女子学生とも御一緒に講義をうけられるわけである。御学友も当分は特に決めず」(「朝日新聞」1952年4月28日夕刊)と述べられるように、できるだけ一般と同じであることが目指されたし、そういう状況に皇太子をすえていることがアピールされた。
なぜ政経学部政治学科を選択したか
ところで、なぜ明仁皇太子は政経学部政治学科を選択したのだろうか。後年、皇太子は「私の場合はですね、政治学科へ行くようにといわれて行ったわけですけど、決して希望したわけではないのです。生物学がやりたいと思っていたものですから」と述べている(1977年12月19日記者会見、記者会見については薗部英一編『新天皇家の自画像』文春文庫、1989年を参照した)。つまり、この時の皇太子の選択は自らの意思ではなかった。皇太子は小さい時から生物学をやりたかったようである(1985年12月19日記者会見)。