「大正4(1915)年9月、金を与えて離縁することになったが、いざその500円(現在の約176万円)を渡す段になると惜しくなった。そこで女房を品川付近の原へおびき出し、絞殺したうえ、死体を付近の井戸の中へ投じた」
記事は、「中島」は3月20日に身柄を検事局に送られ、取り調べ中、としている。こうやってみると、被害者を「女中」でなく「女房」と取り違えているものの、事件の骨格は押さえているともいえる。警察か検察サイドから得た情報と思われるが、細部が不正確だったということ。
萬朝報は3月23日付朝刊では「暗に葬られゐたる殺人事件の犯人は基督教の傳道師なり」の見出しを立て、自社の特ダネだったと強調したが、そういえるかどうか、判断は難しい。
「その金が惜しくてお貞を殺したのかもしれぬ」
その萬朝報の続報では、記者が島倉の自宅に飛んでいる。「兇悪島倉の家 ―堂々たる門構え―」の記事は「漆喰で塗り固めた堂々とした門は閉じられていて、いかに叫んでも出てくる者はいない」とした。
妻の名前も「勝子」「かつ」「カツ」「お勝」と新聞によって違うが、報知は「カツ」とし「(島倉と同じ)郷里の者で横浜の神学校卒」「自宅で日曜学校を開始し、近所の子どもたちを集めて伝道し今日に及ぶ」と報道。
萬朝報には「妻は知らない ―保險會(会)社員と欺く―」が見出しの記事も。「島倉の妻お勝が属する芝区二本榎、高輪教会の牧師・逢坂元吉郎氏を大崎村に訪ねてその談を聞く」として談話を載せている。
逢坂はアメリカ、イギリスでも神学を学び、宗教改革を志した牧師・神学者。「史談裁判」によれば、島倉が貞を雇い入れたのは逢坂の紹介だったともいう。読売の初報の「仲に立った某牧師」は彼のことだろう。公判にも証人として出廷し、島倉についての見解が雑誌に掲載されるなど、事件に深く関わった。この記事でも重要な証言をしている。
「彼に殺された林お貞(16)が辱められた当時、明治学院の高等部にいたお貞の叔父、林音吉が来て、処置をしてくれとのことであったから、私は島倉のところへ行き談判すると、はじめは隠していたが、ついにあからさまに白状した。金100円(現在の約33万円)を音吉の弟の政吉に医薬料及び引き取り料として渡すことになったのだが、その金が惜しくてお貞を殺したのかもしれぬ」
「(島倉は)家庭に対しては某保険会社の勧誘をしているのだと言っていたから、妻はそれを信じていて、きょうまで夫の大罪に関しては何事も知らなかったのが事実である。私の教会にいたころも、儀平は常に『私は悪党だが、妻は何事も知りません』と言っていた」