この事件の報道では、各紙が島倉のことを最後まで「伝道師」「牧師」「宣教師」などと勝手に肩書を付けた。宣教師は外国でキリスト教を布教する人だから論外だが、牧師はもちろん伝道師も宗派で認められることが必要なはず。妻についても「横浜の神学校を卒業した」と各紙書いているが、キリスト教が公認されて日が浅い当時、事実確認は容易にできた。
聖書盗難の被害に遭った米国聖書会社は、海老沢有道「日本の聖書 聖書和訳の歴史」に「1875(明治8)年、南洋に伝道していたギュリックを日本及びシナ(中国)の主事に任命。翌年、横浜に来日。米国聖書会社と称するABS(米国聖書協会)の支社を正式に同地に開設」という記述がある。
米国聖書協会の日本の出先機関として、「ヘボン式ローマ字」で知られる医師・宣教師ヘボンらが和訳した新約聖書などを日本国内で普及させる活動の中心だった。新聞はそうしたことを十分確認しないまま書きなぐっている印象だ。
逢坂は、島倉夫妻の経歴と合わせて、明らかに事実に近いと分かることを語っている。
氏いわく「お勝さんが教会に入会したのは、大正元(1912)年のことで、まず普通の信者です。この人は神学校を出たはずはなく、築地で看護婦をしていたのが事実である」。
「その後、お勝は教会に出入りしなくなり、明治学院のランヂス氏から8円(現在の約2万4000円)を受けて開いていた日曜学校も間もなく休止してしまった」
「その(事件)当時、儀平はわずかに聖書を売り、夫婦共稼ぎで貧弱な生活を立てていた。儀平は元、中田重治氏の福音伝道派の聖書学院(淀橋・柏木所在)に在学したことはあるが、卒業してはいない。もちろん伝道師ではないと思う」
中田重治は、明治期を代表するキリスト教活動家・本多庸一の弟子で、戦前の著名な宗教活動家。布教・伝道の拠点として1901年、東京・神保町に聖書学校を設立し、その後、柏木に移転して聖書学院と呼ばれた。島倉夫妻がどれほど信仰深かったかは分からないが、2人は日本のキリスト教布教の歴史の中にいた。
「強盗のような獰悪な顔」
3月23日付の東日を除く各紙には島倉の顔写真が載っている。時事新報以外は同じ写真だが、時事の写真も含め、容貌は特徴的だ。
逢坂は萬朝報の記事で「私が島倉と会ったのは大正2(1913)年中のことで、彼が明治学院の聴講生になりたいと言って突然来たのが最初である。その時、強盗でも入ってきたかという感じがしたほど獰悪(どうあく=荒々しく強烈)な顔であった。さように嫌な印象を受けたのである」と述べている。
この「悪相」だったことが島倉の運命を決定づける一因だったと思われる。