当時神楽坂署で事件捜査に当たった元・警視庁警部補・小林金太郎は、「捜査研究」1964年12月号から2回続きで「牧師『島倉儀平』逮捕の顛末(てんまつ)記」をつづっている。その要点をまとめれば次のようになる。

1、捜査の端緒は、神楽坂の古本屋に新本の聖書が約20冊積まれていたのを不審に思ったこと

2、持ち込んだ島倉の家を訪れ、署へ連行しようとしたが、「着替えをする」と言って待たせている間に2階から逃走した

3、その後、家を張り込んでいると、正力署長のところに「おまえが馬鹿だから部下もみんな大馬鹿だ」と愚弄したはがきが届いた

4、その後も署長に毎日のようにからかいのはがきが来た

5、島倉からいとこに両国公園へ呼び出しのはがきが来たので、張り込んだが、現れず、「ご苦労だったな」というはがきが届いた

6、今度は、そのいとこの息子に深川不動へ呼び出しの連絡があり、刑事24、25人で張り込み、ようやく逮捕した

7、署の独房に入れたところ、便所に連れ出されたときに、小石をのみこんで自殺を図った

8、林貞が行方不明になっていることと、自宅近くの古井戸で女性の遺体が見つかり、身元不明のまま共同墓地に埋葬されていることが判明。掘り起こして調べると、残った着衣が貞の物と一致。島倉が殺害したと確信した

9、貞の頭蓋骨を署に持ち込み、島倉を取り調べる際、机の上に飾って「覚えがあるだろう」と迫った

10、1週間ほど調べを続けたところ、犯行を自供した

11、自供によれば、島倉は1916年9月、郷里に帰る貞を空き地に連れ出し、ネコイラズの入った饅頭を食べさせて殺した

「史談裁判」によれば、犯行は1913(大正2)年9月で、こちらの方が正しいと考えられる。

正力署長の“武勇伝”に仕立て上げられていく事件

読売新聞社主・正力松太郎(「読売新聞八十年史」より)

 この事件の一方の主役は、当時神楽坂署長でのちに読売新聞社主となる正力松太郎。「日本近現代史辞典」によれば、1885(明治18)年、富山県生まれ。東京帝大(現東大)卒業後、内務省入り。警視庁で神楽坂署長、官房主事、警務部長などを務めた。

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 御手洗辰雄「伝記正力松太郎」(1955年)は事件についても詳しく記述している。それによると、「やってみようじゃないか。その死体を発掘して調べてみれば判明する」と林貞の遺体発掘を命令。

 自分も作業に立ち合い、逮捕した島倉を毎日午前0時から自ら取り調べて自白させた。「徹頭徹尾署長正力の気迫と責任感が、ややもすれば崩れかかる捜査隊を鞭撻し勇気づけたことは、現存する関係者の話で明らかである」と締めくくっている。

 正力自身が事件に関して唯一発表したとされる「怪事件回顧録 =島倉事件の真相=」(「探偵実話」1951年11月号所収)も、遺体発掘を命じ、島倉を自白させたとしている。

正力松太郎が事件について書いたといわれる「怪事件回顧録」(「探偵実話」より)

 ただ、逢坂元吉郎牧師は旧制四高で正力の先輩だが、文中では「私の(旧制)一高時代の二級先輩で」と誤記しているところから、ゴーストライターが書いたとみられる。事件は正力の手柄話=“武勇伝”に仕立て上げられたといえそうだ。