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「死刑囚島倉が書き遺した謎 彼は果して冤罪か」

 さらに東朝は6月22日付朝刊から6回続きで「獄中悲憤記録」を連載した。1回目の見出しが「死刑囚島倉が書き遺した謎 彼は果して冤罪か」。

東京朝日の「獄中悲憤記録」6回続きの1回目

 本文にも「彼は疑問の人だった。既に一審で死刑を宣せられた数多の犯罪も、これぞという的確な証憑(証拠のこと)はなく、断罪の唯一の証拠は、彼の警察と予審廷での自白になっている」とあるように、島倉の犯行に疑問を投げ掛ける内容。

 彼の生い立ちから「前科者」として社会から疎外されていく過程をたどり、島倉が朝、昼、晩と拘置所から引き出され、刑事たちが蹴る、つばをかける、馬糞を付ける、着物を引き裂く、頭の上にタバコの吸殻を乗せるなどの拷問を受けたこと、あまりのつらさにガラス片をのんで自殺を図ったことなどを600枚にわたって書き残したとした。最終回の記事はこう結ばれている。

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 はじめから弁護に立った布施辰治氏は、その死体は林ていであるということについて疑点を述べ、放火についても的確な物的証拠がなく、あらゆる諸点が事件(を)ますます疑問にし、8年余の長い年月、もみにもんできたのであった。―この深い謎は彼の自殺によって永久に解けないであろう。

社長の“武勇伝”を紙面に載せる新聞、作者の“歯切れの悪さ”

 布施から島倉の手記や上申書の提供を受けて書いた記事だろう。冷静に見れば、聖書窃盗や放火による保険金詐欺、さらに婦女暴行も彼の犯行だったかもしれない。

 ただ、少なくとも殺人については大きな疑問があり、冤罪の可能性は否定できない。もっと慎重な審理が必要だった。島倉に「前科」があったことと彼の特異な性格と言動、そして容貌までが彼を追い込んだといえる。

読売に掲載された「支倉事件」の1回目

 島倉の死から約2年半後の1927年1月、読売は新聞小説「支倉事件」の連載を開始した。1月20日付朝刊紙面にはその宣伝記事が載っている。

「魔か人か? 犯罪秘史『支倉事件』を連載 神楽坂警察の大活動と檢事局の大苦心 當(当)年活躍の名刑事と署長が事實(実)談 筆者は探偵小説界の流行児 甲賀三郎氏」

島倉事件を描いた探偵小説「支倉事件」連載の案内記事(読売)

 この文句で想像がつく通り、タイトルや登場人物の名前は変えているが、正力や当時の神楽坂署刑事の話を基に島倉を真犯人として描いた小説。正力は部数増に成功し、のちに「読売中興の祖」と呼ばれるが、社長の“武勇伝”を紙面に載せる神経も相当なもの。

 作品は事実に即してリアリティーのある秀作という評価だったが、作者の甲賀は「文藝春秋」の同年12月号の「探偵術座談会」に出席。ここにも来ていた菊池寛、尾佐竹猛と次のような問答を交わしている。

菊池 しかし実際、あなた方の感じでは女中なんかを殺すのですか。

甲賀 どうも殺しているのじゃないかと思いますけれども、しかし非常に……。

尾佐竹 あれは骸骨が証拠物件になって法廷に出ていました。その骸骨が被害者の骸骨なりしや否やという鑑定が非常に難しくなっていたです。

菊池 本当から言えば、証拠不十分というわけではないのですか。

甲賀 そうではないかと思いますね。素人考えだけれども……。

 歯切れが悪いというか……。小説とはいえ、作者本人が自分が書いた物語の信憑性に疑問を抱いていることが分かる。約1世紀後のいま、「支倉事件」がほとんど人々の記憶に残っていないのは、作品にそうした後ろめたさがこもっているからではないか。

 最後まですっきりしなかった謎の事件。そうさせてしまったことに新聞が大きな役割を果たしていたことは間違いない。現在も同じようなことが全くないと言い切れるだろうか。

【参考文献】
▽森長英三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
▽海老沢有道「日本の聖書 聖書和訳の歴史」 日本基督教団出版部 1964年
▽御園京平「活辯時代」 岩波同時代ライブラリー 1990年
▽田中純一郎「日本映画発達史Ⅰ活動写真時代」 中公文庫 1975年
▽「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽御手洗辰雄「伝記正力松太郎」 大日本雄弁会講談社 1955年
▽「小原直回顧録」 小原直回顧録編纂会 1966年
▽三宅正太郎「裁判の書」 牧野書店 1942年