1ページ目から読む
7/9ページ目

死刑囚の自殺と“冷ややかな記述”

 例の島倉儀平 獄中で自殺 裁判官を手古摺(てこず)らせた揚句 助からぬと觀(観)念したか

 強盗、強姦、殺人、詐欺の罪名で8年間、市ヶ谷刑務所未決に収容中の元牧師・島倉儀平は、あるいは犯人のまねをするやら暴行をなすやらで、さんざん裁判官をてこずらせていたが、元神楽坂署長・正力松太郎氏が前回の公判で手ヒドク儀平の罪を証言したので、もう助かる見込みがないと思ったのか、19日午前8時10分、市ヶ谷刑務所未決監内で縊死した。

 1924年6月20日付(19日発行)東日社会面2段の記事は、死刑囚の自殺にしても冷ややかな記述。控訴審判決が6月30日に迫っていた。読売は短い本記の後に別項で「一粒の飯も餘(余)さなかつた死の朝 島倉儀平の日常」の見出しの記事を載せている。

島倉の獄中自殺を報じる東京日日
獄中自殺の場面(「現代大衆文学全集『支倉事件』」より)

 刑務所担当者の話を総合すると、島倉は獄中では従順で反則行為はなかった。絶えず何かを書いていて、死の前日も筆と紙を要求した。死の当日もいつも通り6時に起床。飯も一粒も残さず食べ、1時間後には死ぬとも見えないほど何の苦痛の表れもなかった、という。担当者はこう語っている。

「正力氏の証言には以前からかなり期待していたようでしたが、公判以来はかなりがっかりしたところを見せていた」

「未決房の窓が2段になっている、その上の段の窓の戸を一方に寄せて、その戸のかまちに手ぬぐいを縄のごとくよってかけ、それでくびれたのです」

「自分はクリストの前には罪を犯したが、法の前に罪を犯したものでない」

ADVERTISEMENT

 東朝は6月20日付朝刊で「『死』を以つて 頑張つた儀平 『法の罪は犯さぬ』と 辯(弁)護士へ宛てた遺書に 上申書五千枚の根氣(気)」の見出しで自殺を正力尋問と結び付けて推理している。

 儀平が唯一の頼みとしていた証拠書類の行方が不明となり、「正力を呼べ」と8年がかりで怒鳴っていた当時の神楽坂署長・正力松太郎氏がいよいよ出廷。儀平が「僕の首のつながるのも離れるのもあなたの証言一つだ」と哀訴したが、正力氏の証言は結局被告に不利益であった。このため、儀平はこのうえ裁判を進行しても、第一審と同様、死刑の宣告を受けるほかはないと諦め、16日、死を決したもののようだ。同日、係り弁護士に宛てた別れの手紙を出し、18日夜、看守の目を盗んで手紙を割いて縄をない、19日午前8時、看守が朝食の空いた容器を取って立ち去ったのを見計らって、明かりとりの窓格子に縄を掛けて縊死を図り、わずか数分で絶命したものらしい。看守が8時10分に監房を見回りに来て発見した時ははやこときれていた。

 監房内には弁護士宛ての「自分が8年間法廷で争ったのは、死を恐れたためでなかった。自分はクリストの前には罪を犯したが、法の前に罪を犯したものでない。罪なくして死を招く。自己のためか妻子のためか。ああ―」といった意味の遺言のほかに、裁判長と遺族宛て各1通の遺言があった。

 儀平が今日までに書いた上申書は実に5000枚に達し、関係者の戸籍謄本数百通を集め、自己弁明の書類は数十冊、数千枚の膨大なものである。