「あの人は獣になっていくじゃありませんか」
「怪事件回顧録」は「彼(島倉)は公判のときに猛獣のごとく吠え狂った。そして証人や傍聴人として出廷した峰岸、金子、渡邊らの刑事を見ると、手錠をはめられたまま猛然と飛びかかっていった」とする。
「小原直回顧録」も「公判廷における島倉は狂える悪鬼のごとく、三宅裁判長が後に『人間はある場合、怒ると獣になる』と述懐しているが、まさにその通りであった」と述べる。
それは三宅が著書「裁判の書」(1942年)の中の「瞋恚(しんい=怒り恨むこと)」というエッセーで、実名を出さずに次のように書いたことを指している。
「自分の調べた被告人に極めて凶悪無残な人間がいた」
「非常な鋭い頭を持っていながらも、その鋭い頭は人の行為の裏を裏をとうかがうことにばかり向けられていた」
「彼が自己の事件においてあらゆる策動を試みたにかかわらず、彼の強弁もついにその効がなくなって、事件は次第に彼の不利に帰し、彼の焦躁と陰険さがますます露骨となってきた、そのときであった。ある日、私は刑務所に行き、彼の独房ののぞき穴からそっと彼の行動を見ると、彼は何か用をしているようだったが、その背筋から肩にかけての線が、どうも狐とか熊とかのそれに極めて似ており、さらにその動きを見ても、やはり畜類という感じのひしひしとくるのを禁じ得ないのであった」
彼の教誨に当たったカナダ人宣教師も「あの人は獣になっていくじゃありませんか」と話したという。三宅は「このことがあってから、私は人間はいつでも獣となることができるものと考えている」と締めくくっている。
一方で「小原直回顧録」は「島倉は二重人格だったともいうが、また、二重人格を装ったようにも思われる」とも述べている。
「証人を思い切り取り調べなければ、ここで裸踊りをする」
東京控訴院での控訴審初公判(1922年7月7日)が一審判決から丸4年もたっていたのは、裁判長の交代が続いたためとみられるが、島倉と布施の裁判に対する姿勢もその一因だっただろう。この間に島倉の態度はさらに過激になった。東朝の記事の中心部分は――。
公判廷で裸踊りすると豪語す 生と死の分れ路に立つ(っ)た島倉儀平
問題の焦点となっている少女の強姦致死(強姦と殺人の誤り)を全面否認しているのと、7年(5年の誤り)越しの裁判で尋問が複雑になっているので一般の注意をひいている。7日午前、第1回の控訴公判が開かれたが、被告儀平は、裁判長、検事、弁護士のお構いなく「そんな馬鹿なことがあるか」とタンカの連発で、ひとかたならず判官を手こずらせていた。何しろ死刑になるか助かるかの分岐点に立っている裁判なので、被告も弁護人も判官もなかなか真剣である。自分の調書全部を手にした儀平はいちいち裁判長の訊問に食ってかかり、にぎやかな裁判だったが、きょうはその当時、儀平を調べた神楽坂署の金子巡査を証人として当時の模様をひとわたり取り調べると、儀平は横合いから「裁判長、そのお調べは弱いよ。もう少し突っ込まなければ駄目だ」と声援し、「証人を思い切り取り調べなければ、ここで裸踊りをするから、そう思え」などと言った。
同じ7月8日付朝刊で読売は、弁護側の尋問に金子刑事が要領を得ない答えをしていたときのことをこう書いている。
「さっきから一人ブツブツ言っていた儀平は、証人の答弁に業を煮やし、赤い毛が薄く生えたはげ頭から湯気を立てて『何だコンチクショウ、三文刑事め。人に骸骨の首っ玉にキスをさせたり、なめさせたり、かかあの髪をつかんで引き回したくせに―。知らぬ―、忘れた―。コンチクショウ、ふざけんない。馬鹿野郎』と腕まくりで狂い立ち、証人に打ってかかる」
「史談裁判」は控訴審と思われる公判での島倉の姿をこう書いている。
「白地の着物に大きな丸を2つ描き、その1つの丸の中に『正力松太郎いふ(う) 任侠大正の佐倉宗五郎』、他の1つの丸の中には『三聴取書及四拾(十)通以上の書類を隠す』と、大きく3行に書いたものを注文して差し入れしてもらい、それを着て法廷へ出ようとして看守に止められた。いまで言うゼッケンデモの先駆者というわけである」