正力松太郎は証人として出廷。裁判長の尋問に対し…
同年11月1日の公判でも弁護側は正力の証人喚問を申請したが却下されたため、島倉は裁判長を忌避した。
11月2日付(1日発行)読売夕刊の見出しは「裸踊の代りに 裁判長を忌避」と皮肉たっぷり。翌1923年4月9日の公判では「始めから終わりまで『正力松太郎(警視庁官房主事)を出せ』と怒鳴り立てる始末」(4月10日付東朝朝刊)。
しかし、その正力は1923年12月、摂政だった皇太子(のちの昭和天皇)が狙撃された「虎ノ門事件」の責任をとって警視庁警務部長を辞職。後藤新平から10万円(現在の約1億6000万円)を借りて読売新聞を買収し、1924(大正13)年2月に社長に就任していた。そのためもあってか、正力の証人喚問が認められ、1924年5月14日、公判が開かれた。
ところが、5月15日付読売朝刊によると、島倉は裁判長からの尋問もないのに、自分と妻のこと、貞のことなどを3時間にわたって“雄弁”を振るい「犯罪は全部知らぬこと」と主張。午後4時半になってしまい「せっかくモーニング姿で朝から証人に出頭し、寒い廊下で待っていた正力氏はお調べを受けず、さらに6月13日、再度出頭することになって、当日の裁判もうやむやに終わった」。
その6月13日、「被告島倉の望み通り、この日、当時の牛込神楽坂署長で前・警視庁警務部長・正力松太郎氏は証人として出廷し、裁判長の訊問に対し『島倉の罪状はあらゆる証拠によって十分であります。島倉がいかに当法廷でしらばくれてもダメです』と証言」=6月14日付(13日発行)東日夕刊。
「史談裁判」は「島倉は証言台の正力にものすごい形相をして飛びかかるだろうと思われていたのに、その日は『正力さん、どうぞ本当のことを言ってください』と哀願的な態度であったのは奇異に見られた」としている。
「伝記正力松太郎」も「この日の島倉は打って変わって猫のようにおとなしく、証人陳述の終わるまで、首を垂れ、沈黙したまま聞き入っていた。そして、正力が退席すると、放心したようなうつろな目を上げてそれを見送り、トボトボと刑務所へ帰って行った」と書いている。