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「女のどくろを法廷に並べて」

「史談裁判」によれば、島倉は神楽坂署に1カ月余り勾留された後、3月19日に犯行を自供。送検されて翌20日、検事の取り調べを受け、予審(事件を公判に付すべきかどうかを決めるために予審判事が取り調べる当時の訴訟手続き)に付された。

 島倉はその間、自供を繰り返していたが、予審の第2回取り調べから否認に転じ、そのまま7月2日に予審が終結した。初公判は1917年9月25日。翌26日付紙面は比較的詳しい東京朝日(東朝)を見る。

 女の髑髏(どくろ)を法廷に並べて 傳道師島倉儀平の裁判

 芝区白金台町2ノ33、キリスト教伝道師兼聖書販売業、前科4犯、島倉儀平(36)に係る窃盗、詐欺、放火、強姦致傷、殺人事件の第1回公判は25日午前9時、東京地方裁判所刑事第3部、三宅裁判長係り、乙骨検事、弁護人・布施辰治氏ほか3名立ち合いの下に開廷された。裁判長はまず午前より午後にわたって、さる明治40(1907)年中、横浜・山下町、米国聖書会社に雇われていたうち、価格7600円(現在の約2500万円)余の聖書を窃取した件、次いで大正2年中、府下淀橋字角筈で聖書を預け置いた家に放火して東亜保険会社から1000円(同約304万円)を詐取したのを手始めに、同様手段でその後数回、多額の保険金を詐取した事実につき、いちいち詳細にわたって審問した。儀平は「保険金は取ったが、放火したことはない」と、落ち着きはらった態度で全ての事実を否認した。

「女の髑髏を法廷に~」初公判を報じる東京朝日

「強姦致傷事件の審問に入る。大胆な儀平はあくまでも和姦だと主張」

 取り調べ段階でいったんは自供したとされたものの、島倉の公判での態度は強硬だった。

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 それから彼が白金台町の自宅で使っていた下女・林てい(16)に対する強姦致傷事件の審問に入る。大胆な儀平はあくまでも和姦だと主張。裁判長から「朝夕神に祈りを捧げる身として、花恥ずかしい乙女の誇りを破って心に恥じるところはなかったか」となじられても、なお和姦だと主張して、傍聴席の妻かつ(32)、聖書会社支配人ウォーレルほか40名の傍聴者を笑わせた。

 やがて法廷には、儀平が府下大崎町の古井戸に突き落として殺害したという林ていの髑髏、古井戸から引き揚げられた女の衣類、数十通の書面などが展開された。裁判長はいよいよ峻烈に林てい殺害事件に関する審問を開始したが、儀平は徹頭徹尾、事実の否認に努めた。裁判長が神楽坂署及び検事廷において明らかに自白していながらなぜ否認するかと問えば、神楽坂署員に髑髏を突きつけられ、そのうえ非常な拷問を仕向けられたから、それに耐えかねた結果、でたらめを語ったと答え、午後8時閉廷した。

 東朝の記事によれば、公判は11時間に及んだ。その長さにも驚くが、被害者の頭蓋骨を法廷に持ち出すというのも、いまではとても考えられない。

 三宅裁判長とは三宅正太郎。東京地裁判事になったばかりだったが、のち司法次官や貴族院勅選議員も務めた。文人肌の裁判官で著書も多い。

 乙骨検事は乙骨半二。「史談裁判」は「論告では被告の利益の点も強調し、公正で知られた人」と評している。

 布施辰治はのちの二重橋爆弾事件、朴烈事件など、朝鮮独立運動に関わる弁護活動で知られるが、刑事弁護士としても有名で、一時は年間25件もの案件を担当。根強い死刑反対論者でもあった。

各紙の判決の扱いは驚くほど素っ気なく…

 その後も公判は続き、裁判長は頭蓋骨や着衣などの鑑定を命令。翌年1918年1月31日には、殺害現場とされる大崎の「松平ケ原」と埋葬現場の寺の墓地の現場検証が行われた。