「自殺して裁判長をのろいますぞ」
同じ日付の東日にも「未決八年のもだえ 死んでもこの怨みは殘る」という記事が。島倉の妻子が行方不明になっていることから、遺体は布施弁護士が引き取ることになったとしたうえで、6月13日の公判の際のことをこう書いている。
退廷するとき、引かれながら「裁判長も神様でないから、間違った判決をすれば承知しない。ことに死刑にでもしたら、自殺して裁判長をのろいますぞ」と遠藤裁判長をにらんで暴れ回った。自殺する前日には布施弁護人にはがきを寄せて「正力の隠している書類を出してくれずに裁判をするなら、死んでも受けぬ。首をつると監獄に迷惑をかけるから私は餓死します」と遺書のようなものを出していて、既に彼は13日の公判以来、激しい生の執着にとらわれながらも死を覚悟していたものとみられる。
「死霊になって恨みを晴らす」
6月21日付各紙朝刊は、控訴院が発表した、島倉の控訴審担当裁判長4人宛ての遺書の内容を伝えた。東朝を見る(原文のまま)。
封筒の宛て名は、御家流の筆跡見事に「裁判所御四人様 御詫状 死にゆく冤枉者ギヘイ」としたため、裏面には「私は殺火暴行してないのです」と大書してある。遺書は日本紙罫紙1枚にしたためたもので、その内容は次の通りであった。
遠藤、日下、柳澤、石塚殿。是迄の事は水に流して、どうぞお許し頂きたい。重々悪うございました。悪口許(ばか)り敲(たた)いて、人は死に當(当)つて初めて考へらるゝのであります。アゝ重々悪う御座いました。お許し下さい、お許し下さい。私は正力から騙されて、財産を妻子の名義にしてやる、處(ところ)があとで書類を出して公判からヤル處がトンデモナイ事にされました。口惜しくてなりません。
此の恨は屹度、死霊になつて正力松太郎のトコニ晴らしてやります。
財産、妻子を奪はれ望みなき身、なんとなく世の中がイヤになり、俄に死にたくなりました。で、私は今日明日のうちに多分死ぬことでありませう。
死ぬ前にあたつて一言お詫びまで。草々、敬具。
大正十三年六月十七日
「御家流」は武士の公式文書に使われた書体。「冤枉者」は無実の罪を着せられた人のことだ。東朝は6月22日付(21日発行)夕刊1面の「今日の問題」という短文を集めたコラムで「島倉儀平の遺書には正力松太郎君の所へ化けて出るとある。圓(円)遊の野ざらしではないが、正力さんも嘸(さぞ)待ち兼ねや(よ)う」と書いた。
圓遊は落語家の三遊亭圓遊で、「野ざらし」は白骨のことだが、この場合は、美人の骨を釣りあげようとする落語の演目。この時期、読売の社長となった正力は婦人欄と演芸欄を拡張するなど、部数拡大へ攻勢を始めていた。東朝はそのあたりを意識して冷やかしたようにも読める。