映画「トラック野郎」が公開されてから半世紀近く。パラリンピックの開会式やグッチのCMにも登場し、世界でもにわかにデコトラ(デコレーション・トラック)が注目を集めている。

 かつては「怖い」「危なそう」などと、デコトラを敬遠する人も多かったが、そんな空気を地道に変えていき、デコトラを“日本の文化”にまで押し上げた立役者の一人が、田島順市氏(74歳)だ。田島氏は日本最大のデコトラ組織「全国哥麿会」の会長を長年務める、デコトラ界では知らない人のいないカリスマだ。そんな田島氏に、波乱万丈のトラック野郎人生について聞いた。(全3回の2回目/#3に続く

哥麿会の田島順市会長

日本最大のデコトラ組織「哥麿会」

一世を風靡した映画「トラック野郎」の第1作が公開されたのは、1975年の夏。デコトラに乗った長距離運転手の桃次郎(菅原文太)とジョナサン(愛川欽也)が大暴れするロードムービーで、全10作が作られた。その撮影協力のために組織されたのが、現在でも活動を続ける日本最大のデコトラ組織「哥麿会」だ。当時29歳の田島さんが入会したのはシリーズが終わる少し前のことだった。

――「トラック野郎」が始まった時には、すでに田島さんもトラックに乗っていたんですか?

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田島 ちょうど映画が始まった時、俺は26歳でよ、埼玉にある実家の瓦屋を継いで2トン車のトラックで関東各地に瓦を運んでた。東映の映画スタジオが大泉にあったから、埼玉のドライブインなんかでよくロケやってて、時々、見に行ってたんだ。

――この映画の撮影協力(ボランティア)のためにデコトラ組織「哥麿会」が結成されたそうですが、田島さんはいつ頃、入会したんですか?

田島 30歳手前くらいかね。自分のトラックもちょこちょこ飾ってたから声をかけてもらったんだ。「哥麿会」に入ると、自分のトラックも映画に出られるチャンスがあるんだけど、やっぱり古くから入会している人が優先で、俺なんか相手にされなかった。だから宴会ではみんなの前で裸踊りして顔を覚えてもらって、出れるチャンスを狙っていたの(笑)。

 9作目でようやく出演できたけど、俺のデコトラは映ってなくて、エキストラとして菅原文太さんの横で一緒にちょっと踊ったくらい。

「トラック野郎」で主人公が乗っていた一番星号。田島さんがこの“伝説のデコトラ”を完全復活させるまでの経緯は#1を参照

――初めての撮影は楽しかったですか?

田島 楽しくはないね、ほんの一瞬だけで悔しかったぐらいだがね(笑)。次はもっと!と思っていたら、映画が急遽、終わっちゃって。寅さんぐらい続くんかなと思ってたら、もうえらい消化不良でよ。

映画に代わる“新しい目標”

――愛車は出なかったんですね。「哥麿会」は映画が終わった後、どうなったんですか?

田島 当時、何人、会員がいたのかはよく知らないけど、映画が終わったら、ほとんどの人が辞めちゃった。それで映画終了の4年後の83年に、俺が30代半ばで三代目の会長になったの。消化不良組の関東の奴ら40〜50人くらいで哥麿会を継いでよ。引き継いだっていっても名前だけ。イチから組織を作り直すことになったの。

 それで、ただ集まるんじゃ寂しいから、デコトラの撮影会を横浜でやってみたんだよね。そしたら50台くらい集まってよ。映画のファンたちが「次はどこでやるんですか?」って。

――好評だったんですね。

 

田島 そう。それで手ごたえを感じて、映画に代わる新しい目標を作ることにしたんだ。会って何か目標がないと続かないでしょ。1980年代って、今の倍くらい死亡事故が多かったの。「交通遺児母の会」(現:交通遺児等を支援する会)って当時からあったんだけど、そこに寄付するために次からチャリティー撮影会にしようって。

――母の会? あしなが育英会とは違う会ですか?

田島 あしなが育英会は交通遺児の学費を助ける会だけど、「交通遺児母の会」(1975年創設)は、ダンナを交通事故で亡くした妻、つまり母を支援する会なんだ。職業訓練所の学費だったり、資格の勉強をするためのお金を出したり。ダンナが亡くなって、子供達のために自分が働かなきゃなんないからな。